第百十一講
≪百九講に関連して≫
最初は死ぬことが怖くて仏教を学び始めた人も、
学びが深くなるうちに死が問題でなくなるように、
最初は喧嘩に強くなりたくて始めた武術や武道も、
そのうち戦うことが問題でなくなる。
私もそういう自分に気付いた。
2008,9,5
第百十二講
≪イヤな大人にならないように≫
若いうちに「先生」と呼ばれるような仕事(立場)につくと、
自分が何者かであるような勘違いをしてしまう事がある。
25歳で支部道場を始めた私にも、矢張りそういう時期があった。
二十代の時には、自分では気をつけているつもりでも、
自分が偉いような錯覚をした。
若い人で、早く道場を持ちたいと思っている人もいるかもしれないが、
ちゃんと仕事もし、ある程度の人生経験を積んでから先生になって下さい。
2009,9,5
第百十三講
≪そんなにショックかなぁ?≫
殴られる事に慣れてないと(殴られ慣れてるってのも、なんかイヤだけど/笑)、
顔面に一発当てられただけで、ナイーブになってしまう人もいる。
・・・打たれて当り前なんだよ。
相手だってデクノボーじゃないんだから。
入会したばかりの人だと、顔に“ぽん”と当てられると
“参った~(負けた)”と思うものみたいだけど、
ある程度慣れて来ると、当てられたって倒れない(効いてない)限りは
全く平気だと思うようになるもんです。
んなもん気にならないよ(笑)。
イチイチその程度の事でびっくりしなくなるのだ。
2008,9,5
第百十四講
≪昔話なぞ、ひとつ・・・≫
私が内家拳を習い始めた道場は、一番最初の稽古では
形意拳の歩法と、柔術の手解きのみ(柔術併学道場だったので)教わった。
で、20分位それを習ったら、
「今日は帰ってよし」と稽古が終わった。
翌週、道場に行くと前回習った所を少し手直しされて、
次の手解きの仕方と、ヘキ拳のみ教えて貰い、
また20分程の稽古時間で、「帰ってよし」と帰された。
習った事がある程度出来ていないと、先を教えては貰えない感じだった。
直されて終わっただけの日も随分あった。
その内に段々、憶えた套路(型)も長くなるし、習った柔術の技も増えて来ると
稽古時間(道場に居る時間)も増えて来る。
最初は20分だった稽古が30分、
30分だった稽古が40分、60分、90分、120分と増えて行った。
・・・元来、稽古とは、そういう物なのかも知れない。
何度教えて貰っても、チェックして貰っても、上達出来ない時は出来ないもので、
出来るようになる(身に付く)には、“時間”という物も大きな要素だ。
一回の稽古中に、先生に何度もチェックして貰いたいという気持ちも分からなくもないが、
先生というのは皆の稽古を結構均等に見ているものであり、その中で修正すべき所は教えているものであるし、
出来ていれば次の段階の事を教えてくれるものだ。
(そういや、たまに「残っていろ」と目配せされて、皆が帰って誰も居なくなった後に、教えて貰った時もあった。)
自分の動きを見ている筈の先生が、「ここをこうしなさい」と教えてくれない日も有るかも知れない。
それは、まだ直すに価しない、つまり、前回までに教えた事が出来ていないという事なのだ。
習った事が結果として現われるまでには、時間が掛かる時もある。
そういう時が勝負だ。
諦めず取り組むしかないのである。
・・・諦めたほうが楽なんだけどね(笑)。
2008,9,11
第百十五講
≪器用、不器用≫
先生がやって見せた事、教えた事を、すぐに出来てしまう人と、
何回やって見せられても、なかなか出来ない人とがいる。
昔、私の師匠が言った。
「器用な人が稽古を継続すれば凄くなるんだろうが、器用な人は稽古を休む(中だるみする)んだよな」。
不器用だからと、卑下する必要は無い。
亡くなった先生がこう言っていた。
「上手いと思っている者がじき稽古に来なくなる。下手だと思っていた者がずっと続けていて、気付くと上手くなっているものだ」。
先生が教えた事がすぐ出来たとしても、それは外形をコピーしただけで、中身は違う。
だから結局、器用な人も不器用な人も、上達するには同じ位の時間が掛かるように思う。
要は諦めなかった者に、身に付くのだ。
器用で簡単に憶えてしまう人は、あちこち手を出し易いかも知れない。
そうなると、結局は上っ面だけ撫ぜた事になってしまう。
器用貧乏とは、まさにこれを言うのだろう。
しかし、世には“天才”というのが居るそうだ。
師匠が昔、「俺もこの世界に長くいるが、天才ってのを初めて見たよ」
と、ある弟子を誉めていた。
器用なタイプの中の一番上の人間が、天才なのかも知れない。
私はまだ、その“天才”というのに会った事はないので実感沸かないが、それでも、それに近い生徒は居た。女の子だった。
不器用でなかなか出来ないからこそ、沢山練習するのだろう。
沢山練習するから、人より上手くなるのだろう。
だから、不器用ってのは、決して悪いものじゃない。
芸事というのは、つまり、そういうもんだ。
2008,9,19
第百十六講
≪一意専心≫
手の形、足の位置等々・・・
武術(いや、芸事はなんであれそうだが)には、守らねばならない決まりというのがある。
が、先生の動きを見ると自分に教えた方法と違っていたり、又、先輩には違うやり方で教えていたりする。
で、自分がそれを真似すると、
「お前にはまだ早い!」と怒られたりする。←どこかの犬みたいだなー(笑)
実は、上達してしまえば、どうやっても良い事や、変える事で違った効果を出せる部分がある。
しかし、それを基礎が出来てない、初心者が真似てはダメなのだ。
そうなれるまでには、結構な時間が掛かる。
昔、私が師事した或る先生の所に、他武道を学んでいる人から
「中国拳法を教えて下さい」との問い合わせがあった。
先生は、「空手との兼修は無理です。どちらかを辞めて下さい」
と、即答した。
それを聞いていた私は、“先生の好き嫌いにも困ったもんだ”
と内心苦笑したが、実はそんな好悪の問題ではなかったのだ(笑)。
前述したような“自由なレベル”にまで到達したければ一つの事を、余程一所懸命に稽古しなければ難しい。
時間だってかかる。
確かに、他流を学ぶ事で気付かなかった発見や、見えなかった事が見えたりする事はある。
しかし、それは自分が学んでいる流儀の正しいやり方とは違っているかも知れないのだ。
先生は混雑を嫌う。当然の事だ。
何世代も伝わって来た物を、他の物と混ぜられて良い訳がないからだ。
その当時、私がフルコンタクト空手を始めたのを聞き、先生は
「また馬鹿なこと始めたのか! ・・・まぁ、お前の問題だから、好きにすれば良いさ」
と言った。
勘違い無いように、一応断っておくけれど、これは流儀の優劣を言っているのではない。
全く動きや発想の異なる物を、発展途上の者が兼修したら、元も子もなくなるぞ、という意味である。
個人的には、以前述べた様に、兼修に苦労しながら努力している人は好きだ。
しかし、それは別の問題として、今、私も思う。
他武道の片手間に稽古して、身に付くようなものではないよね~、と。
教える以上、先生には、生徒が“ちゃんと”上達するように導く責任がある。
そこまで導くのが、師の責任でもあるからだ。
だから、そこまで責任を持って教えてやれる状況に無い者に対しては、
「教える側として責任を負えないならいっその事、最初から入門を断る」
という判断もあるのだろう。
あの時、私の先生が空手氏の入会を断ったのも、多分、そこに理由が有ったのだ。
一つを追求していく事は、難しい。
つい、余所見をしたくなるもんだよね(笑)。
うん、その気持ち、分かるよ。
20年以上武術を学んで来て、そう思う。
趣味でやりたい人には優しく。
武術専門家を目指す人には、厳しく。
きっと、私達はそういう世界にいる。
2008,9,24
第百十七講
≪同じ話を道場でしましたが・・・≫
聞いていない人も居る筈なので、ここに再録します。
私の道場は色々教えてますが、
実は、内家三拳(形意拳、太極拳、八卦掌)中心の道場です。
え? 知らなかった?(笑)
私自身色々学んできましたし、その人それぞれの好みや目的に合わせて、やりたい事を教えていますので、
その辺がぼやけているかも知れません。
仙台教室の生徒で、古い人はもう2年半位になるでしょうか。
まだ内家三拳の套路を一通り、憶えてないってんじゃ困りますよ!(笑)
・・・まあ、実際さ、
内家三拳だけじゃなく、少林拳などの外家拳。
心眼流や柔術。
数多くの対錬や、武器術、スパーリング。
“沢山の事をやっているので、套路を一通り憶えるまで時間が掛かるのは仕方ないな”
と思って来ましたが、やっぱし、それではいけません。うん、イケマセン。
「俺は太極拳なんかやりたくねぇ」とか、
「あたし、形意拳なんていやん」とか
強い意思が有ってやらないのなら、それはオッケーですが、
そうでない人は取りあえず、入会から丸2年で、
形意五行拳・老八掌・正宗太極拳の三つは憶えるのを目標にして下さい!
ぃよろしくぅ!
2008,10,24
第百十八講(講義?)
≪似たような話はいつもするけれど≫
時々尋ねられます。
私が言う事や、やってみせる事を、
「どうしたら出来るようになりますか?」と。
“何の役に立つのだろう?”とか、
“こんな事やってて何かになるんだろうか?”と
思ってしまうような事を、年単位で熱心にやって下さい。
そしたら出来るようになりますよ。
2008,11,12
第百十九講
≪今回は説教≫
この度の昇級審査はお疲れ様でした。
今回のような審査をすると、武術と云うのは
“自分一人で強くなれるものではない”という事が
改めて解るのではないかと思う。
以下の話は、仙台教室の金曜日のみ、石巻教室の火曜日のみの、
週1回のクラス選択をしている人ではなく、「強くなりたい」と
数クラス選択している人を対象とした話である。
うちの道場はなかなか帯に色が付かない。
付いても、今度はなかなか色が変わらない。
そのせいかどうか知らないが、
黄色帯を締めるようになると、稽古から足が遠のく者が結構多い。
現在、八大武舘では日・火・金・土、週4回稽古がある。
中には金・土・日、三日連続で稽古に来ている者もいる。
仙台から原付で石巻教室まで通って来る奴だっているのだ。
仕事の都合もあろう。学業もあろう。
それぞれ事情があるのも理解できる。
が、週に一度すら道場に来る時間が捻出できない奴に、
芸事なんかやる資格はねえ。
週四日稽古が有るうち、1回も来ないってのは、
なんの事はない、やる気がないんだろう。
酒飲んでたり、女と遊んでる暇はあるのに、
たった週一度も道場に来られないってんなら、
さっさと武術なんか辞めちまえ。
強くなりたくて始めたんなら、一人で稽古してたってダメなのは解るだろ?
武術ってのは、一人で妙な踊りを踊る事が目的じゃない。
相手を倒す事を目的とするんなら、対人練習、
つまり練習相手が必要だ。
型だって、一人で稽古してたら変なクセがつくもんだ。
先生に直して貰わなきゃ上手くはならない。
まともに道場に来ないってんなら、
そんな奴に教えるつもりはさらさら無ぇな。
こっちから願い下げだ。
今回、合格した人達も油断する事なく、
更に気を引き締めて、これからも取り組んで頂戴。
2008,11,28
第百二十講
≪脳ミソも筋肉だ!≫
とゆーのは、脳味噌の“中味”の事であって、現実の脳味噌は衝撃に弱いらしい。
・・・でも実際、私の場合は“ノーミソ筋肉”と言うのが、我ながらぴったり来るんだが。
さて、問題は、その柔らかい脳味噌だな。
スパーリングは、つい力が入りがちかも知れないが、殴りっこは充分注意して行なわなければならない。
胴部への打撃ならいざ知らず、頭部への打撃は結構注意しないと、年取ってから効いたりする。
若い内は“少々殴られたってへっちゃらさ!”とごまかしが効いても、年を取ってくると、
後遺症らしきものに苦しめられるようにもなるんだ。
私事で恐縮だが、
若い頃、グローブも無しでガンガン殴り合いをしたせいか、この数年、時折酷い頭痛を感じるようになった。
その痛む場所が、昔ひどく殴られて打撃を食った箇所なのだ。
頭痛と関連するのか、眼痛も有る。
車のヘッドライト。テレビ。蛍光灯など、光が目に入ると頭痛や吐き気を覚える時も有る。
私が稀に、夜間でもサングラスをかけているのは、
何もカッコ付けてるのではなく(笑)、目に光が入ると、眼痛や頭痛を覚える時なのだ。
殴られた事と、この頭痛の因果関係は正直解らない。
前に検査して貰ったが、脳などには何の問題も無いそうだから。
ブルース・リーの本には、次のように書いて有る。
「泳げるようになりたければ、まず水に入らねばならない。
スパーリングをしないのは、水に入らずに泳ぎを練習するのと同じだ。
時に殴られて頭痛も感じるかも知れないが、諦めるな」 と。(趣意)
彼は生前、時々酷い頭痛を訴えていたと云う。
死因として、頭痛に使用していた鎮痛剤が挙げられている。
(記憶違いで無ければ、病院側の死因の公式見解はこれだった筈)
鎮痛剤を常用していたと云うから、酷い頭痛持ちだった可能性が有る。
(背骨に故障が有ったらしいので、それとも関係有るかも知れないが)
若しかすると、彼にも殴られた後遺症が有ったのかも知れない。
推論も含め長々述べたが、結局私が言いたいのは、頭部への打撃は慎重にしなければならない、と云う事だ。
スパーリングではつい熱くなるかも知れないが、頭部への打撃は軽く当てる程度にしよう。
又、マウスピースの着用はなかなか効果が有る。
歯の損傷防止、口内出血防止に役立つだけでなく、首や頭部への衝撃もだいぶ軽減できる。
顔面有りのスパーをしている人は、是非使うように勧めたい。
身体と云うのは、思った以上に丈夫では有るが、同時にこんな程度で?と思う程の脆さも併せ持っている。
注意するに越した事はない。
私も来月で39歳。そろそろお年頃だ。←?
精神的にも、昔なら何てこと無いような出来事が少々こたえる様になったり、
肉体も段々ごまかしが効かなくなって来たりする様になり、“嗚呼、俺も人間だったんだなぁ”と、
改めて感じるこの頃である。
2009,1,18