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第八十一講

≪“教わる”ということ≫

 

先日心眼流の師匠と飲んでいた時の話。

師匠が語る。

「顔も見た事ない奴が突然やって来て、

『●●の技について教えて下さい』

なんて言ったって、門前払い喰うに決まってんだろ。

真剣に学びたきゃ、『一から教えて下さい』 と頭を下げるべきなんだ」

と言うのを聞いて“そりゃー当然だよな”と思った。

 

世の中には色んな人がいるもんだね(笑)。

“そんな奴、いるのかね”と笑ったが、考えてみれば確かにいる。

 

美味しい所だけ、とか、楽しい所だけ教えて欲しいってのは、無理ですよ。

初めて行った道場で、「○○の技を掛けてくれ」なんて言えば、

当然無視されるか、

反対に、思いっきり掛けられて酷い目にあいますよ(笑)。

一からちゃんと習えば、そんなに時間経たないうちに、

あなたの知りたかった事は経験できる筈です。

 

先日、とある古流の道場に通っている人に聞いた話。

その道場には、空手を兼習している生徒が一人通っていたらしい。

その空手君は、鏡の前でしょっちゅうパンチやキックを練習していて、

先日とうとう師範から、

「そんなに空手がやりたいのなら、空手道場に行きなさい」

と出入り禁止を食らったとの事。

言われて、当り前ですよ。

君は一体、何を学びに古流の門を叩いたの?(笑)

又、その道場に、太極拳をやってた人が入会したら、

稽古前に太極拳ばかり練習している上、

何かあると、「太極拳では・・・」と言ってばかりいるらしい。

・・・あのなぁ、君達なぁ。

 

 

何かを学びたいと思っている人、当たり前の事を当たり前にしましょうね(笑)。

余計なお世話かも知れないけど、これは私からのアドバイス(^^)

2008,1,15

 

第八十二講

≪誤解なきように(笑)≫

 

 

先日、ある新聞に心眼流修行者としての私の意見が載った。読んだ人もいるだろう。

あの記事を読んで、私が筋力やスピードを否定しているように解釈した人もいるかも知れない。

が、それは勘違いである(笑)。

スペースの都合で、記事には私が話した事のほんの一部しか掲載されていないのだ。

 

中国武術や日本の古武術など、古くから伝わる武術には“力を凌駕する技”というものがある。

それは事実だ。それを追求して行く事は大切である。

特に、体力的に劣る女性や非力な人が自分の身を守る為には、それは必須である。

体力的に恵まれない人が、相手と“正面から”殴り合いして勝てる訳がないのだ。

(だから、格闘技には階級性が設けられている。)

“正直に真正面から戦っては勝てない相手”に勝つ技術。

そういうのは中国武術や日本武術などの古武術には確かに存在する。

しかし、最初からそればかりを求めて行くのはどうであろうか?

現実問題、端的に強くなりたいのであれば、やはり最初の取っ掛かりとしては、

スピードとパワー、そして反射神経を磨いて戦う練習が必要だし、目的達成が早い。

古武術の“技”は、それからでも良い。

でないと、“技は出来るが、相手の攻撃がかわせない”という体たらくになってしまう(笑)。

今の世の古武術修行者にはそういうタイプの人が多いから、

「古武術ってのはホントに使えるのか?」

と疑問視される事が多いのだろう。

 

スピードとパワーで戦う事を経験しているからこそ、古武術の技の効果の高さにも気付く。

そして、スピードとパワーで戦う事を練習して来たからこそ、

古武術で学んだ、省エネ且つ効果的な技を使う事も容易なのだ。

打ち合いの稽古をしていなければ、相手に触れる事も出来ない。

下手をすると、近付く事もできずに打ち倒されてしまう。

 

結局は、本当に使うことを考えたら、強くなりたいと思うのであるなら、

形稽古だけではちょっと厳しいという事なのだ。

勿論、形稽古を通してでも不可能ではないが、それはかなりの時間が掛かるのである。

 

 

蛇足だが、一応断っておきます。

私は、記事について文句がある訳ではありません。

インタビュー内容の何処をどの様に使うかは記者の自由だし、

記事は良くまとまっていて、流石プロだなぁと感心した(笑)。

あの記事で始めて心眼流の存在を知ったと言う人も多く、

今回記事には載らなかった心眼流道場にも、問い合わせが増えたらしい。

レベルを上げる為には、稽古者の人口を増やす事も一つの方法。

あの記事が切っ掛けになって、心眼流を学ぶ人が増えたら大成功でしょう。

2008,1,26

第八十三講

≪単純な事実として≫

 

結局、私が言ってるのは実に単純な話だ。

上級者になれば又別として、初心者・中級者のうちは力とスピードや

反射神経が絶対必要だし、身体だって軟らかい方が良い。

形稽古でどんなに技が切れたって、結局殴りっこをやっている人間には勝てない。

ただそれだけの、極く当たり前の事を言ってるだけである(笑)。

 

これにはどなたも異論は無いでしょ?(笑)

2008,2,6

 

第八十四講

≪他武道との兼学(並学)について≫

 

「他の武道と兼学しても良いか?」と聞かれる事があります。

それは(私は)全く構いません。現に当会にも他派と兼学している方は結構います。

では、わざわざ(私は)と括弧を付けたのは、

「私は全然構いませんが、兼学というのは結構大変ですので、ご本人さえ宜しければ」

という意味です。

何が大変かというと、二つ以上の事をやると混ざってしまうのが大変なのです。

自分では気を付けて区別を付けているつもりでも、

どうしても動きや力の使い方が混雑してしまい、苦労するのです。

 

例えば中国武術をやっている者が空手をやりますと、どうしても動きに空手の影響が出始めます。

私もフルコンタクト空手はとても楽しくて、毎週の稽古を楽しみにしていたのに、

結局辞めざるを得なかったのは中国武術に影響が出始めたからです。

足や身体の使い方など、折角身に付いて来たものが逆戻りし始めた事に自分で気付いたからでした。

私はそんなに器用な人間じゃなかったって事ですね(笑)。

この頃の自分の映像を見ますと、突きが完全に空手の物になっています。

又、古流の剣術をやっていた人が剣道を始めた所、身体をピクピク動かすクセがついてしまい、

師匠に毎週注意されるようになったと聞いた事もあります。

このように兼学というのは、(それをちゃんとやろうとすれば)

本人にとってかなりの努力を要します。

ちょっと気をつけた位じゃ、ダメなものです(笑)。

 

武道によって異なる身体使いや動き。それをキチンと分けて行うというのは、

一見容易に出来そうに思えますが、そう簡単ではありません。

「別々の動きを区別できないのは、稽古不足だからだ」

との意見も充分理解できます。

けれど、そんなに武道にばかり精力を向けられるでしょうか?(笑)

「○流が主であって他の物は従なので、それ程熱心にはやらなくても良いんです」

と言うのであれば、兼学は比較的簡単ですが、

ある程度本気で身につけようと思えば、それではどうしようもありませんし、

いつまでも身体の動きが出来て来ない(自分の流儀とは異なる動きをしている)生徒には、

先生も余り熱心には教えてくれなくなるものです。

なので、兼学ってのは結構大変なんです。

 

教える側の私としては、生徒が兼学するのは本人の自由ですし、

例え生徒さんの動きがウチの(私が求めるもの)と違っていても、

私には何の影響もありませんので全くオッケーなのですが、

学ぶ本人からしたら大変な努力が要ります。

そんな訳で、

「ご本人さえ良ければ(大丈夫ならば)、兼学は全然オッケーですよん」

と語るのです。

 

 

私は、兼学に苦労しながらも、

上手くなろうと精一杯努力している人は好きですよ。

頑張って下さいね。

2008,2,15

 

第八十五講

≪ある質問へのお返事として≫

 

力(ムダな力)を使わない、身体の操作による合理的な技。

武術である以上、それは当り前。それはどこにでもあります(笑)。

結局はそれを売りにしているかどうか、というだけのことです。

 

何気無い動作で相手を打つ(俗に発勁と言われますが)のも身体操作。

相手の力一杯の攻撃を、触れるだけ(のように見えるだけなんですが)で無効化してしまうのも身体操作。

強力且つへビィウエイトの相手を、力まず投げ崩すのも身体操作です。

こういう身体操作というか合理的な技がなければ、

うちの女の子が80キロ超の男性を崩すなんてことは出来てない筈なんです。

ただ、それは当然の事とした上で、「強くなりたい」と言う方には

スピードやパワーで戦う事を(先ずは)教えています。

それが仙台教室の土曜クラスや石巻の日曜クラスです。

 

どんなに、力を使わない技が使えても、優れた身体操作が出来ても、

それを、自分に害を為そうとする相手に対して揮えなければ、

曲芸と同じだというのが私の持論なんです。(^^)

2008,2,16

 

第八十六講

≪そんなにカンタンなモノではないですのよっ!≫

 

ある動きを初めて見た時に、「すぐ出来る」と思っても(解った気になっても)、

何度か習ううちに、最初に見た印象が間違っていた事に気付くというのは、

良く有る事です。

一例を、心眼流から挙げてみましょう。

 

“払い”を見て、心眼流を始めて間もない人が、

“あれは空手の内受けと同じ。すぐ出来る”

と思ってしまう事があるようです。

が、良く習ってみると、あれは払いと云うよりは、

中国拳法の“掛手”(一般的だと思われる用語を使いました)に

近いと云う事が分かります。*注

 

新しい事を憶える時に、それまで自分が身に付けていた

知識や技術を活かして憶えようとするのが(たぶん)人間ですが、

それを活かそうとし過ぎるが故に、見えなくなってしまう事も有ります。

半合点しないように注意しましょう。

又、その様な半合点タイプの人に、“続かない”人も多いような気もするのです(笑)。

 

*注

築館心眼流の治先生の動きは、ここに述べた通りです。

「払い」とは表現しますが、逸らし・流しの動きです。

腕を動かすかどうかと云うだけで、山勢巌と原理は一緒です。

南方心眼流の力先生の動きは、その発展型としての、掴みに移行する為の動きです。

新田柳心館の動きが、最も“払い”に近いかも知れません。

2008,3,21

第八十七講

≪焦るな。必ず力になる≫

 

武術(武道・格闘技を含む)を始めて暫くの間は、

素人と喧嘩や腕比べをしても負ける事があるかも知れません。

それで「武術なんか役に立たない!」って辞めてしまう人も居るかもしれません。

 

子供の頃、特に小学生位から武術を始めると、

身体や体力的な事もあって、効果が出るまで少し時間がかかります。

殊に子供向けの道場だと、実用というよりは、体作り教室みたいになっている所も多いので、

そう簡単に喧嘩で身を守れるようにはならないのです。

 

しかし、それでも継続するのは決して無駄ではありません。

3年位で効果が出始めます。

例えば、今迄自分より強かった相手が殴ってきたような時に、

思わずカウンターが出て撃退できたりもします。

5年も稽古すると、もう素人とは格が違っています。

「5年」なんて一見長いように感じるでしょうが、あっという間です。

小学5年生で武術を始めたとすれば、高校に入る頃にはかなり強くなって居るということです。

 

そうなればもう、イジメられてる子もイジメられる事はないでしょう。  

2008,3,26

 

第八十八講

≪急所攻撃重視派は非実戦的である≫

 

という意見があります。

これが「急所攻撃のみに頼り過ぎるな。急所攻撃を過信するな」

という意味なら概ね賛成です。

「急所攻撃しか来ないと解っていれば、防禦するのは簡単。

故に急所攻撃中心の流派はイマイチ実用的ではないのである」

という意味であれば、「一寸なめ過ぎですよ」と申し上げたい(笑)。

 

しかし確かにその意見にも一理あるのは分かっているので、

否定する心算は全くない、という事を念頭に置いて読んで頂きたい。

 

1.戦う相手のスタイルが事前に解るか?

これから戦おうとする相手が、急所攻撃中心の稽古をしている

(必ず急所のみを狙ってくる)という事が、

事前に分かっているでしょうか?

以前より面識があるなら別として、初対面で戦うとなったら、

相手がどんな攻撃をしてくるか解らないのではないでしょうか。

急所攻撃というのは、当たれば一発で戦闘能力を著しく奪われます。

「戦ってる内に分かる」というのであれば心許ないです。

 

2、相手の得意を破れるか?

例えばローキック。

余程慣れていないと警戒していてもいつか食らう(笑)。

キックを入れる為のコンビネーションに引っ掛かるものだし、

それに、いつまでもかわしてばかりという訳にも行かないでしょ。

攻撃しなければ、劣勢になるからね。

で、自分が攻めたその時に、ローを入れられる事も多い。

それと同じで、幾ら急所攻撃中心の相手でも、

その攻撃は目や金的ばかりに来る訳ではないでしょう。

急所攻撃は、上手いコンビネーションの中に入っているのです。

それに、カウンター狙いで急所を攻めてくる人もいます。

殴ろうとした瞬間に金的。

蹴ろうとした瞬間に金的。

足を進めた瞬間に金的。

何かしようとした瞬間に金的。

と、隙あらば金的に入れる練習している人もいます(笑)。

自分の一寸した動きに合わせて、カウンター的に金的を狙われると、

途端にやり難くなります。

(しかも目にも攻撃を散らされたりね)

 

勿論、どんな事も両者のレベルに左右されます。

中には相手の動きを逆手に取り、急所攻撃を引き出して

勝ちを収める人もいるでしょう。

なので、どんな事も一概には言えないものなのです。

2008,4,2

 

第八十九講

≪題は貴方に任せます(笑)≫

 

自分の師の動きの真似をしようとするのはとても大事であり、

それなくしては上達は有り得ないのだが、しかし師匠と完全に同じになる必要はない。

というより、完全に同じにはなれない。

師匠のコピーになる必要はない。師匠と弟子は違ってて当然である。

 

例えば故・植芝盛平の弟子には有名な方が何人か居られるが、

それら全員が違う風格を持っている。又、陳式太極拳四天王も全員が違う。

同じ先生に習って、全伝を受け継ぎ、伝承者と認められても皆違う。

それが個性なのである。

 

教える側からの意見としては、

弟子が自分と違う動きをしていても、それが“良くない動き”でさえなければ文句はない。

長く稽古して来ると、“これは自分とは違うが悪くない”と解る様になるものだ。

だからそれが悪くさえ無ければ、師匠も文句は言わない。

ある程度慣れたら、自分の感覚を大事に稽古を重ねるのだ。

それが違っていれば、師匠が注意してくれる。師匠とはそういう仕事。

2008,4,12

 

第九十講

≪基礎中の基礎知識など(笑)≫

 

当会に入会する人の大半が、中国武術について予備知識のない状態で門を叩いています。

道場では私も技術以外の事は余り説明しないので、人によっては何年道場に通っても

自分がやってる武術が、中国武術のどの辺りに位置するのか等の、最も基礎的な事さえ知らないようです。

それって、まるで文盲だった頃の武術修行者みたいですよね(笑)。

歴史も理論もなにも無し。ただ、技術のみ身に付けているってのは一体いつの時代の人なのでしょう?

初心者向けの本を一冊読めば解る程度の知識は、一々道場で説明もせず、

各自の勉強に任せっぱなしの私にも責任は有る訳ですな。

ごめんね、みんな。

 

 

我が国では、中国で行われている武道・武術を“中国の拳法”という事で、

“中国拳法”とか“中国武術”と呼ぶ事が多いようです。

でも、当然ながら中国人が“中国拳法”とは呼びません(笑)。

中国や台湾で「中国拳法」と言っても、一瞬首をかしげられます。

中国では“功夫”とか“武術”と呼ぶ事が多いようです。

俗に「カンフー」との呼び方は、“功夫”の読みから来ていると言われます。

 

その中国武術は、大別して“北派”と“南派”に分類されます。

因みに、北と南の境いは揚子江です。

良く、昔から「南拳北腿 東槍西棍」で、

「南の武術は手技が多く、北の武術は蹴りが多い」と言われますが、実情ではそうでも無いようです。

何故そう言われるようになったのかは、『当会で練習している武術』の中で説明していますので、ここでは触れません。

 

北派の武術を、更に外家拳と内家拳に分ける場合もあります。

(現在ではこの分類方法は余り使われなくなっているとの事ですが。理由は面倒なので割愛!)

このように分類した場合、内家拳は太極拳、形意拳、八卦掌を指し、他の流儀は外家拳に含める事が多いようです。

これも、『当会で稽古している武術』上で大まかに説明したので、省略します。

 

で、当道場では、北派の武術を中心に練習している訳ですね。

 

 

さて、ここからが今回お話したい事です(笑)。

 

問答無用で体力が付くのは、外家拳です。

やってみれば解りますが、スタミナだけでなく、すばしこさや体のキレなども同時に鍛える事が出来ます。

中でも酔拳や地ショウ拳はハードで、なかなか手ごたえが有ります。

どちらも跳んだり伏せたり、転がったりします。

地ショウ拳の幾つかの動作は、ブレイクダンスと似ていますが、ブレイクダンスの方が余程見栄えがします(笑)。

上手い人のブレイクダンスの方が、上手い地ショウ拳よりも動きが凄い!です。

その辺は、まぁ武術とダンスの違いなのでしょうね。

ブレイクダンスでは位置取り等の点でも戦えませんもの(笑)。

 

内家拳を中心に稽古している人の中には、

内家拳の動きの追求や、その技術に満足してしまい、体力作りを怠ってしまう場合もあります。

でも、戦うって事を考えた場合には体力は必須ですし、走るのも速いに越した事は有りませんよね(笑)。

 

私の道場では、内家拳専攻の人にも出来るだけ外家拳も練習して貰うようにしています。

体力的側面だけでなく、内家拳は元は外家拳から派生した事を考えても、

内家拳修行者に外家拳も練習して貰うのは、プラスと考えるからです。

(私個人の場合でも、内家拳だけやっていたら解らない事も有っただろうな、と思います。)

 

 

蛇足ですが、外家拳をやって体力が付くのと、走る事が上手くなるのはまた別の問題です。

地ショウ拳の套路は、他の拳種の套路と比較して割と走りながらやりますけど、

それでも矢張り、走る事そのものとは別です。

走る為にはやはり走っていないと、いざ走った時に足がもつれたりします(笑)。

2008,5,1

 

 

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