第百一講
≪それって挨拶?≫
套路(型)には意味があるというのは、何度も説明して来た通り。
ただの動きの羅列ではない。
で、一見“始まりの挨拶”に見える動き(中国武術では開門式と呼ぶ)も、
実はただの挨拶ではなく、技になっている事が多い。
そしてそれが、その流儀の考え方(戦い方)を示している事も少なくない。
(既に道場で説明したので、ここでは具体的な説明はしません)
私が初心者向きの棒術を習った時、一番最初の“ある動き”について、
先生から「受けられるように」と注意された一言で、その動きの意味する所が解った。
↑ぼかして書いています。
一見挨拶に見えるが、既に戦う動きになっている!
先生はヒントをくれる。
そのヒントをきちんと拾えるように、こちらのアンテナの感度も重要だ。
・・・もしかすると、その先生自身は、その動きの意味を理解して居なかったかも知れない。
私に言った言葉は、先生がそのまた先生に言われた事を、そのまま私に言ったのかも知れない。
だが、私はその言葉によって、重要な事が理解できた。
これが“口伝”。即ち伝統である。
2008,6,16
第百ニ講
≪出来れば分裂はせんほうが・・・≫
今回のお話は、初心者へのアドバイスというよりは雑談なので気楽に読んで頂きたい。
って、私の文章を真剣に読んでるって人も居ないか(笑)。
ある会派の開山(創設者)が死ぬと、分裂が起こるのは世の常だが、
分裂すると会派全体の水準が低くなるので、可能ならよした方がいい。
極端な話、明日私が死んだとする。
私に代わって古い方の弟子、例えばT村君、I藤君、K池君等が指導(責任者)するようになったとする。
すると、私と彼等では(現時点では)技量に雲泥の差が有るから、幾人かの生徒はそれに不満を抱くだろう。
その不満を持った生徒が分派し、例えば小池派、高橋派、三浦派、などを立ち上げたとする。(笑)
すると、そこから更に、も一つ技量水準は下がる。
分裂を繰り返せば繰り返す程、道場全体のレベルは下がる。
武術をやっているような人には、自意識の強い人も多いから仕方ないのかも知れないが・・・これは残念な事である。
皆が損得抜きで仲良く出来れば、素晴らしい会派が残るのだろうが、現実を見るにそうは行かないようだ。
悲しいかな、それが人の性なのだろう。
金がからむと特にそうなりやすいので、だからこそ
「芸事を生業にしてはいけない」
と常々言っているのである。
ちょっとばかり違う話。
武術・武道に限らず、芸事は皆同じだが、偉い(影響力を持った)先生が死んで少し経つと、
その先生の「弟子だった」と言い出す者が出て来るのも世の常である(笑)。
又、本当の弟子の中にも、キャリア(年数・位置)を偽る者も出て来る。
中には、「私のみが秘伝を授かった」などと言い出すケースもある。
そんな話は枚挙に暇がなく、私も沢山耳にする。
本当の弟子にとっては不愉快極まりないだろう。
先生となった人間は、弟子名簿(入門年月日・授けた免許段階)をしっかり残して、それを信頼できる者に托さねばならないと思う。
今、心眼流のある先生は、その名簿をちゃんと作っている。
2008,6,25
第百三講
≪中国武術や古武術が使えないとお嘆きのかたへ≫
世には色々タイプの先生がいるように、生徒にも色んなタイプの人がいる。
教えてくれる先生、教えてくれない先生。
疑問を持つ生徒、疑問を持たない生徒。
自分がやっている武術が「無駄なもんだった」と思っているアナタ。
こちらからもお尋ねします。
「あなたはそれを何年位やりましたか?」
「それはどの位稽古し、また工夫してみましたか?」
「こんなモノ、なんの役に立つか解らない」 という感想を持ったというのを良く聞きます。
当会の生徒の中にも、他教室でそういう疑問を持ち、私に習いに来た人もいます。
しかし、そういう疑問を持っている人の多くは短期間、長くて2~3年程度しか習わなかったようです。
短期間では何が大事なのかすら解らないのではないでしょうか?
何かの台詞ではないですが、「せっかくの優れたものを、貴方自身が駄目にしている」のです。
私は10歳で武道を始めました。今、38歳です。
間に5年間のブランクはありますが、それでもキャリア(だけ)は大したものでしょう?(笑)
中国拳法(内家拳)を本格的に習い始めたのは、25歳からです。
15年経ってようやく解って来た事だって沢山あります。
年数が経てば経つほど、新たな発見が有ります。
最初の2~3年ではスパーリング(自由攻防)で内家拳の理合が出るなんて事は有りませんでしたよ。
指導者としての私は、生徒がそういう疑問を持たずに稽古に専念できるように、
「これは何の為にやる稽古なのか」
「この動きは実際にはどう使うのか・そしてその変化は・武器術との関連は」
など割と最初に説明してしまいます。
勿論、余りに興味本位だったり、試そうとする意図があからさまな場合は、例え質問があっても無視する事にしています。
私はへそ曲がりなんです(笑)。
2008,7,1
第百四講
≪まだまだ進歩できる事って、嬉しい≫
私事ではあるが、近頃、稽古で気付いて来ている事がある。
ここで細かい事を述べる訳にはいかないのが少々残念だが、以前から生徒にも教え、自分でも重視して来た事の、
“もう一つ深い段階”に気付いて来たというか、その真の意味が身体で解って来たというのか・・・
上手く表現できないけどね。
第62講の内容の、一つ深い段階と言っても良い。
矢張り稽古は勢い良くガムシャラにやればいい、という訳ではないですね。
新しい段階、新しい気付き・・・ちょっと感激する。(笑)
素晴らしき、五行拳!
素晴らしき、正宗太極拳!
生徒にも教えたいのは山々だが、この感覚を伝える事は難しい。
各々が稽古の中でモノにしてもらうしかない。
そこに辿り着く方法や、その道案内となる感覚は教える事ができる。
自分の持っている感覚を直接教える事の出来ないもどかしさ。ああ、もどかしい(笑)。
今回に限らず、新しい発見は一様にそうだが、
この、“今感じていること”が絶対に正しいとは(まだ)言い切れない。
若しかすると、勘違い(爆)だという可能性もあるのだ。
間違っているか否かは、もう少し時間が経てば解るものだ。
2008,6,26
第百五講
≪回り道も、ちから≫
“早く完成しよう”と努力するのは立派だけれど、
余裕を持たないと見えない事、気付けない事もある。
山の頂きに着く事を急ぎ慌て過ぎて、
まわりの景色が見えなくては、山を登っている意味が無くなってしまう。
良い武術家になろうと思うのなら、
登りながら見えた景色や地面の感じなども、
しっかり憶えておく事が大切なのだ。
何故なら、登ることそのものに意味があるのだから。
2008,7,4
第百六講
≪そのやり方では・・・≫
「太極拳は本来、実戦武術なんだよ」
との説明を耳にする事は多い。
う~~ん、気軽にそんな事を言い過ぎなんじゃないでしょうか?
生意気言うようで恐縮だけど・・・。
武術的に太極拳を学びたいのであれば、今現在、カルチャーセンターなどで一般的な套路のやり方(打ち方)では、
10年やっても太極拳の妙味は解らない筈です。
型が悪いという訳ではなく、練習の仕方に問題があるのっさ。
現代に太極拳を普及させた人は、本当に上手い隠し方をしたなぁ、と感心する時があります(笑)。
武術としてではなく、健康運動として上手く変化させたんですね。
中国の空港などには、良く「身体を鍛えて 国の役に立とう」的なスローガンが掲げられています。
現代中国の太極拳や武術は、その目的に従って変えられたもの。
言ってみれば撃てない銃。
武術としての妙味は隠されているので、そのやり方そのままで練習してもイマイチなのです。
重要なやり方と言うのは、実は(道場にもよるけれど)一番最初に習っている場合もあるようだ。
・・・え? 全然なに言ってるのか解らない?
良いんです。
門下生のみ、これを読んで思い当たれば。
2008,8,5
第百七講
≪“身を護る”ことって・・・≫
もう10年ほど前になるでしょうか。
世の中を甘く見てるな~って感じの女子高生が入会しました。
ある日の稽古後、その子に質問されました。
「先生。乗り物の中で首を絞められた時は、どうすれば良いんでしょう?」
実際にそういう目にあったと言うので、私は、
「電車に乗り合わせている人達って助けてはくれないから、出来るだけ最後尾に乗るようにしなさい。車掌さんが必ず助けてくれるから」
と答えました。すると、
「いえ、電車じゃないんです」。と。
「タクシーに相乗りでもしたのかい? 運転手さんが黙ってないでしょ?」
と言うと、
「いえ、タクシーでもないんです」
と返事。
「??? ・・・どういう状況だったの?」 と聞くと、
「道を歩いてた時に、知らない男の人に『送っておげる』と言われて、その車に乗ったんです」
と返事。
さすがに私も、唖然としましたよ。
・・・あなた、“護身”って、なんだか解ってますか?
その後間も無く、彼女は
「高校辞めて、コンビニの研修に行って来ます!」
と道場を後にしました。
・・・生きてりゃ良いけど。ははは。
2008,8,21
第百八講
≪先生と、生徒≫
先日、ある生徒が、道場のない日に
「暇だったから、先生と飲もうと思って」と、遊びに来た。
・・・実はこういうのって、とても嬉しいものだ。
今は(特に都会では)そうでもなくなったが、
一昔前は、生徒は先生の家に結構遊びに行ったらしい。
半分、家族付き合いのようにして技術を学んだ訳だ。
(田舎に行くと、今も結構そうだけどね。)
道場では教えてくれないことでも、訪ねて行けば結構教えてくれたりもする。
先生にマンツーマンで稽古をつけて貰ったら、武器術なんかはかなり上手くなる。
中にはナイフ対ナイフの格闘や、身の回りに有る物を上手く使った戦い方などを指導できる先生もいる。
そういう事は、道場ではまず教えてくれない内容だ。
訪ねて行けばこそ、だ。
実は、先生に色々な質問が出来る機会はそう多くなくて、特に稽古時間内だと無理だったりする。
数少ない質問の機会は、飲み会の時だったりするのだが、大人数での酒席だと、先生に質問しても答えをはぐらかされたり、
皆が酔って来る頃には、先生も話が不正確になったり、あちこち飛んだりする。(笑)
ま、それはどんな人だって同じだ。
でも、個人的に飲むと、先生は大切な事を丁寧に、酔う前に話してくれたりもする。
又、酔ってても、大事な話だったりもする。←後で気付いたり(笑)。
・・・おっと、酒の話になってしまった(爆)。
先生が、門人との個人的な付き合いを嫌がらない人なら、暇を見つけて遊びに行けば良いと私は思う。
実は先生というのは、無条件で生徒を愛しているものだ。
遊びに行って、武術の事だけでなく、仕事や恋愛などの人生の事まで相談してしまえば良いのだ。
(勿論、先生が全ての相談事に的確な答えを出せるとは限らない。しかし、君のことを思って一所懸命答えてくれる人が、そこにいる。それだけでも、人って救われないだろうか?)
今はドライな世の中になったせいか(?)、先生と生徒は、“月謝と技を売るだけの関係”になってしまっている。
それって一寸淋しくないか?
“先生”というのは、月謝の額以上に多くの事を引き出せる存在なのだ(笑)。
勿論、“先生なんかとは道場だけで十分”と思う人なら、道場以外で先生に会うのは苦痛に決まってるので、止めた方が良い。
あくまで、“生徒もそうしたいし、先生もそれを喜ぶ”場合にのみ、通用する話である。
・・・え? その見極めかた?
先生が、「いつでも遊びにおいで」とか「個人的に習いに来ればいい」
と君に声を掛けてくれた事があるなら、まず大丈夫だ。
男も女も、遠慮なんかしないでドンドン遊びに行っちゃえ!(笑)
もしかすると、
声を掛けて貰っている門人がいるのに、自分は声を掛けて貰えないという場合もあるかも知れない。
それは、先生が何かの事情で声を掛けないのだと思う。
余り心配する必要はないだろう。そのうち掛かるさ。
最後には、先生と距離(精神的な)が近い者が有利なのも、間違いないのだから。
先生との付き合いってものは、そんなに難しいことじゃない。
先生との年齢差によって、自分の親父のように、祖父のように、兄のように付き合えば良いのだ。
余り構える必要はないと思う。自然体でいい。
でなきゃ、私みたいにダラシナイ男が、先生の家に行ける訳がない。
・・・ただし、技は先生が飲む前に教えて貰った方がイイ(笑)。
まぁ、世の中には変な先生も居るようだから、その先生の人となりが解ってからにした方が無難なのは言うまでもないけど。
2008,8,22
第百九講
≪心の垢を落とす≫
今日のお話は、初心者には難解なもの。
軽く読み飛ばして貰えれば結構。
つい、人を打つ為に稽古をしがちである。
“武術の稽古”であるのだから、それは十分理解できる。
殺気立った形意拳を打つ人もいる。
それは間違いとは言わない。
しかし、いつまでもそれで良いのだろうか?
心地良いのだろうか?
武術とは不思議なもので、ある段階に進むには
精神の穏やかさが必要な気がする。
暁月、朝風を感じれば、誰しも心の洗われる思いがする。
武術の稽古も、同じく成れたら甲斐が有ろう。
套路を打つ毎に、心が澄む様に。
かく述べると、「お前は僧だから」との意見も出て来よう。
では、武術の発祥が、寺院に託されているのは何故か。
静かに己が心を見つめる内観の行ともなる。それが武術。
何時までも人を打つのか。何時までそれをするのか。
心の垢を落とす事は、楽しい。心が軽くなる故に。
軽安な生き方は、本当の自分を生かすこと故に。
・・・ん、カッコつけ過ぎたか?
2008,8,27
第百十講
≪道場は学びの場だから・・・≫
練習では、何回失敗したってイイのだ。
“練習”なのだから。
極端な事を言えば、実戦で失敗するのが困るのだ。
だろ?(笑)
その為の練習なのだから、失敗を気にする事なんてないのだ。
楽しくやると良いよ。
2008,8,31