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第五十一講

≪知られちゃマズイ。だから秘密主義(笑)≫

 

人に知られてしまった技はその時点で通用しにくくなる。

知らない技だからこそ、効果的に掛かるのだ。

例えば、ローキックは知らない人には単純に蹴っても当たる。

が、ローキックを知っている人には単純に蹴っても当たらないので、

今度はローキックを入れる為のコンビネーションが必要となる。

相手がそのコンビネーションを憶えてしまって、

そのコンビネーションが通用しなくなった場合は、

今度はそれ迄はローキックを入れる為の手段として使っていた、(例えば)パンチや他の蹴りを

決め技に変えていく工夫が必要となるのだ。

この様に、知られてしまった技というのは効果がなくなってしまうので、

常にその上を行かなければなくなる。こりゃあ結構大変な事だ(笑)。

技を教えなければ簡単に倒せた相手でも、学んで行くうちに技が通用しなくなるのだ。

と云う事は、それだけその相手を倒すのが難しくなるという事になるのだ。

武術を教えるというのは、或る意味、その“技”を教える事だと言っても過言ではない。

武術家というものは、いつも何処かで戦う事を考えている人種だ(笑)。

だから、自分が戦う事を考えた場合、出来るだけ他人に技は教えたくないものなのだ。

それを教えている以上、昔から月謝を取るのは矢張り当然なのだろうと思う。

又、かような意味からも、

自分の所で学んでいる生徒が、他派の前で自流の技を開示するということは本当に避けたい事なのだ。

だから昔気質の先生は他派との兼修をしている者を嫌う傾向がある。

ただの無意味なケチではないのである(笑)。

もしも自分の道場で、他派の技を必要以上に説明する生徒がいたとしたら、

「この者は他道場でもうちの技をこのように開示しているに違いない」

と思われてしまいやすい。

こう思われてしまったら、その先生がそれ以上の技を教えてくれる事は無くなってしまう。

 

そういや、こんな話がある。

他派を本門としている人が或る道場に入会し、事有る事に他派との比較をしていた。

或る時、そこの古い弟子が師匠に、

「ほっといて良いんですか? 随分な態度だと思いますが。この際、私が〆ても良いですか?」

と提案した所、

「放っておきなさい。月謝を払って呉れてるんだから。

なぁに、ほったらかしにしとけば直に辞めるから」

と返事が返って来た。

 

ま、私の場合はそういう事にあんまり拘らないので安心して貰って大丈夫だが、

数人の先生に就いている人は気を付けて学ぶと良い。

先生に警戒されては、ホントに学び難くなってしまうものだから。

 

因みに、ここで私が例えとしてローキックを使ったのは、

当会の基本的技術にローキックが有るからという理由ではない。

一つは、ローキックという技術は一般的で解り易いから。

もう一つは、当会独特の技法を説明する事を避ける為。

或る意味、これも秘密主義(笑)。

自分達のスタイル(戦いの方法論)を明かす事で、

結果として弟子達が不利になる事を避けるのは大切な事だと思っている。

誰だって自分の弟子は可愛いのだから。

2006,2,23

 

 

第五十ニ講

≪“波”とは上手に付き合おう≫

 

稽古に波があるのは、或る意味仕方のない事だ。

日々の自主トレは勿論、道場に通うのが嫌になる時もあって当り前だ。

実際、道場に行かなければ夜はゆっくり出来る。

ゆっくり夕飯を食べて、風呂に入って、一杯やりながらボーっとしている事も出来る。

仕事が忙しかったような日は、誰だって稽古に行くのが億劫になる。

心も身体も休めたくなる。

だから、稽古に行きたくない日が有るのは当然の事。

稽古は休まないのが一番だ。が、専門家なら兎も角、普通の人はそうも行かない。

時々は稽古を休んでリフレッシュするのも良いかも。

一週休んで、“よし、次からはまた休まず行こう”と切り替えれば良いのだ。

 

だが、この“休養”は魅力的で(笑)、一歩間違うとクセになる。

どうしても人は楽な方へと流れやすいからだ。

家に居たってダラダラしているだけなのに、それでも家で過ごす方に傾き易いものだ。

一ヶ月稽古に出て、三ヶ月休む・・・というように、余りにも波の大きい人はナカナカ伸びない。

そのうち後輩に追い抜かれて、辞めてしまう人も少なくない。

だから“休養”がクセにならないように気を付ける事は大切だ。

休むのは簡単だが、休みグセが付かないように注意しなければならない。

 

実は、武術が好きで堪らない私にだって、稽古に行くのが億劫に感じる時がある。

もし、稽古を2ヶ月休んでしまったら、もう稽古に行くのが嫌になるだろう。

それを知っているから、私は稽古を休まないようにしているのだ。

稽古は家を出るまでが億劫なだけで、道場に着いてしまえば楽しく稽古するものだ。

第一、少々の疲れや、精神的なストレスなんてのは、

身体を動かすと結構解消出来るもんなのだ。

何もせずに独り悶々としている方が、よっぽど深みにハマるのだ(笑)。

 

そんな訳で、余程体調が悪いのなら兎も角、

気乗りしないとか、疲れているというような事が理由なら、

すっかり休んでしまうよりも、道場に出て見学していた方が遥かに良い。

なぁに、お茶でも飲みながら稽古を見学していれば良いのだ。

稽古を休んでしまえば何も身に付かないが、

見学しているだけでも何かしら憶える事はあるものだ。

(まぁ、これは許す先生と許さない先生が居るのは確かだが、私は許している。

子供の習い事じゃないのだ。大人が自主的に習ってるのだから、

自分のペースで取り組むのも一つの方法かと思っている。

長く付き合うのなら、そんな余裕も必要だ。細く長く、楽しくだ。

勿論、お茶を飲みながら見学なんてのは、私だって門下生以外には許さないが。)

 

休みの取り方にしても、“稽古の取り組み方の一環”として、

自分のペースを知って付き合うと良い。

 

波があるのは恥ずかしい事じゃない。

波とは上手に付き合えば良いのだ。

2006,2,28

 

 

 

第五十三講

≪基礎中の基礎≫

 

サンドバックを叩き、蹴りまくりましょう。

最初の頃は、表面だけが、“パシ パシ!” と鳴る感じだったのが、

続けている内に、“ズドン ズドン!” と深くえぐれる様になって来ます。

その内、やや軽めに打っても、重いサンドバックがスタンドごと浮く様になります。

こうなると、自分の突き蹴りに自信が付きます。

自分の武器に自信が付くのですから、余裕を持って戦う事が出来るようになります。

 

横蹴りやテキ腿など、最初は正確にサンドバックに当てる事が

やや難しい蹴りもあるかも知れませんが、

それも、慣れて来るとしっかり当たる様になります。

それだけ動く相手にも効かせられる様になるって事なのです。

 

走りましょう。

最初は2~3キロの短い距離からで結構です。

スパーリングの動きの中で、細かいステップを使っても、足がもつれなくなります。

 

“基礎”とは、套路や基本を正確に練習する事だけではありません。

大前提の“基礎”があるのです。

2006,7,19

 

 

 

第五十四講

≪武術家の性癖?≫

 

「護身用の武器って何か携帯してますか?」

と聞かれる事が時々あります。

スミマセン。あたしは持ってません。 ご期待にそえず、申し訳ない。(笑)

 

実は、そんな私も、昔はヌンチャクを持ち歩いてました。

ヌンチャクが野暮ったく感じる時には、角指や点穴針を持ってた事もあります。

九節鞭を腰に巻いた時もありました。

巻くなら、ウエスト周りが増えない様に注意しなくちゃですわね。(笑)

しかし、そういうものは嵩張りますし、所持していると金属探知機のある場所には入れません。(笑)

なので、安全靴をはいていた時期があります。

安全靴なら、飛行機にも乗れますしね。

中国拳法には、爪先を突っ込む様に使う、特徴的な蹴りがあります。

鉄板入りの靴で蹴られたら、少々鍛えていても関係ないですもんね。

 

又、その頃は、周囲に居る人物を瞬時に観察しました。

強そうか。

こちらに気付いているか。

ヤル気はあるのか。

身長、体重はどれくらいか。

利き手はどっちか。

何か持っていそうか。

歩き出し、体重配分等、動きにクセはあるか。

この場でやるとなったら、有利な位置は何処か。

戦うに際し、危険なものはどれか。武器になるものは、どこか。

そして、危なさそうな人物に背を向ける場合は、

影や、反射する物で相手の動きが捉えられるように。

 

が、今はそういう物は一切所持しなくなりましたし、相手の観察もしなくなりました。

注意を怠るようになったのです。(笑)

素手の技術が高くなるにつれ、自信が付いたからでしょうか?

・・・いや、一寸違うような気がします。

イザとなったら、そこらに有る物は何でも武器にする事が身に付いた頃から、

武器を持ち歩かなくなったかも知れません。

ボールペン一本あれば、何とでもなるからです。

 

いえ、もっとはっきり言ってしまえば、そんな事すら考えてません。

ありていに言っちまえば、ボーっとしているのです。

たまに、「武術家っぽいギラギラした感じがないですよねぇ。ホントの名人ってそうなんでしょうね」

なんて、あたくしを持ち上げて下さる方もありますが、そりゃ持ち上げ過ぎです。

単に、今の私は油断しまくりなんです。わはは。

いきなり襲われたって、“何とかなるべぇ”と思っているのです。

初撃でやられてしまわなければ、血ぃぶったらしながらでもその場は凌げると思ってるのです。

え? 初撃でやられたらどうすんのかって?

ええ、実際そういう事はまま有りますもんね。

そりゃ、諦めます。仕方ないっす。

だから今の私は、なんか怖そうな人がいたら、あえて気付かない振りをします。

面倒臭いのです。

そういう時には、女性や子供と一緒にいると大変重宝します。(笑)

 

こんなあたくしは、武術家としてはダメダメなのでしょうね。

実際、昔気質の武術家は、幾つになっても瞬時の判断を欠かしません。

そういう人は、金属探知機にも引っ掛からないような、簡便な武器も所持しています。

その様な武器は、使った後の処理も簡単です。

例え捕まったとしても、自分が武器を使った事を悟らせません。

怖いわねぇ。(笑)

相手が刃物を持っているような時にも有利に動けるように、

一寸した飛び道具を持っている人もいます。

勿論、あたしも自分の生徒にはその道具の訓練を勧めています。

が、あたし自身はと言えば・・・。

そんなこと、考えてるのがメンドクサイのです。

 

「どんなに注意してたって、やられる時はやられるし、死ぬ時は死ぬ」

なんて思ったりするあたしは、僧侶が身に染みちまったって事なのでしょうか?

う~ん、何かそれも違うような気がするなぁ。

ただ単にメンドクサイってだけなんだろうな、きっと。

 

あれ? 『初心門下生へのアドバイス』だったよねぇ、これ。

これが何かのアドバイスになりました?

 

あ、あたくし夏場は下駄はいてます。

下駄って、かなり使える道具なんですよ。(笑)

2006,7,24

 

 

 

第五十五講

≪またもや秘密主義の話(笑)≫

 

以前、ある先生が「数千円で買える本に大事な所を書く訳がないよ」と言っていた。

本もビデオも宣伝物だと考えた方が良い。という話をこのHPにも紹介した。

 

結局なんだかんだ言っても、武術家というのは秘密主義である。

私も自分の練習は人に見せない。

例えば、公民館で自主トレする時は、真夏であっても下の窓は閉める。

誰かに練習を見られて、手技が得意か、足技が得意か。

投げや関節、寝技が得意か。

どの拳種を最も得手としているのか、武器の使い方はどうか。

などを知られるのは賢いとは言えないからだ。

 

例えば私が、ある人が頻繁に○○・トレーニングをやっているのを見たとする。

“この人は力のある戦い方が得意だろう、半面、足を固定させ易いだろう”

と、大まかな傾向を分析する。

練習を何度か覗けば、実際の所はどうか、又、隠れた得意も解る。

 

又、初心者の場合、他人の目が気になると、自分の為の練習のペースが崩れる事があるので、

他人の目が気になる人は、ひと気のない所で稽古しましょう(笑)。

2006,8,11

 

 

 

第五十六講

≪女性の“武術”への取り組み方に就いて≫

 

「あたしが武術をやってるのは、健康の為によ」

「あたしがやってるのは、趣味としてなの」

「あたしは単純に好きだからやってるの。だって楽しいんだもの」

と目的が決まっている方なら、悩む事はないのでしょうが、

女性がある程度“強さ”を求めて武術に取り組んでいると突き当たるのが、

“女のあたしが男性に勝てるのかしら?”

という門題だと思います。

やや我田引水的ですが、実は中国武術(特に内家拳)なら、この問題をクリアし易いのです。

男女が正面きって互いに殴り合うという状況では一寸難しいですが、

“身を守る”という側面では幾つか手があります。

例えば、相手が押し込んで来た時に、力で受け止めようとしては、

女性は男性には到底太刀打ちできません。

相手の力と正面衝突せず、逆に、力を抜いていなし、崩す事を憶えるのです。

先ずは相手の力を受け流す事を身につける事。俗に言う化剄です。

仮に、相手が押し倒そうとした場合、その力は一定ではありません。それに乗ずる方法があります。

それと、直撃すれば男性も倒せるという程の、2~3の得意手を練り上げる事。

後は、押し倒されてしまったり、固定されてしまったりした時の為に、

格闘技的ではない、最もシンプルで効果の高い技術を学ぶ事。

 

勿論これらは、身につけるまでにはそれなりの時間と努力が必要です。

インスタントで出来るようになる事ではありません。

弱かった男性が強くなるにも、女性が男性に少しは敵し得るようになるにも、

それなりの修練が必要なのは言うまでもありません。

 

最初にお断りしたように、これはあくまで“身を守る”という意味においてです。

格闘技をやっている者同士が、向き合って戦うという状況では難しい事があります。

 

今回、いつもより解りにくい書き方をさせて頂きました。

解りにくさ故に、“本当かよ?”と疑問を持たれる方も居られると思います。

解り難く述べたのは、具体的な事を述べて、その方法を知られてしまうことを避ける為です。

戦い方を知られない事、非力な人間にとって、これはとても大事です。

特に護身は意表をつくことも大事。知られてしまわない方が良いに決まってるからです。

2006,9,4

 

 

 

第五十七講

≪やってみよう!≫

 

今回は、武術に興味があるけれど、いざ実際に習うとなると、どうも踏ん切りがつかなくて・・・

という人へのお話です。

 

新しい事を始めるのって、案外、「えいっ!」という、気合というか、思い切りが必要ですよね。

(って、あたしは図々しいので、そんなの感じたことないんですけどね。)

特に武術の場合はそうですよね。なんか怖そうですもんね(笑)。

でも、道場って、怖い所じゃないですよ。

一昔前は、怖い道場も一杯有りましたけど、近頃じゃそんな所は減りました。

武術に興味があるんなら、一度気軽に見学してみれば良いのです。

見学して、“やってみたいな”と思えば、やってみれば良いのですし、

あんまり魅力を感じなければ、他の道場へ見学に行ってみれば良いだけの事ですから。

 

実際、趣味がなくて、休日になると無目的にふらふらしてみたり、

ゲーセンに行ったり、パチンコ屋に入り浸ってたり、一日中モニターとニラメッコしている位なら、

武術でもやった方が、良い事いっぱいありますよ。

身体は鍛えられるし、友達も増えるし、いざって時には身を守れる様にもなるんだから。

2006,9,5

 

 

 

第五十八講

≪本気で身に付けたいなら≫

 

第五十二講の補足。

仕事が忙しいとか体調が悪いとか、稽古に出ない理由は多々あろうが、

本当の事を言えば、遅刻してでも道場には行った方が良いし、

体調が悪いのであれば、見学だけでもしに道場には出た方が良い。

何故なら、二ヶ月に一回位しか来ないと、次に来た時までには前回習った事を忘れてしまっているし、

例え自主練習していたとしても、自己流の変な癖がついてしまっている。

教える側から見れば、たまにしか来ないと直すだけで精一杯。新しい事なぞ憶える空きはない。

だから例え不調で動けなくても、また短時間でも、

道場に行って見てさえいれば動きも余り崩れないし、新しい事を覚える余地もあるものだ。

 

一つの事を続けるに、世には確かに障害が多い(笑)。

だが、その障害を言い訳にしてサボってしまう者には、何事も身につかないものだ。

2006,9,18

 

 

第五十九講

≪マニアックな程に?≫

 

実力を付ける為には、やはり一つの事を続けるのが大切。

性格的にすぐ飽きてしまって、他のやり方にちょこちょこと目が向く様だと、なかなか上手くなれないみたい。

同じ事だけやっていれば、そりゃ普通は飽きるでしょうけど。(笑)

だけど結局、同じ事の深度を深める事が楽しいと思えるタイプの人が上達するのね。

近頃とみにそう思う。

 

套路や方法論が多い流派もあるし、少ない流派もありますが、

套路数の多い流派で学んでも、出来ていなければ先には進んで貰えないでしょう?

心眼流の師匠によれば、昔は基本の21本だけを10年近く振ったらしい。

マニアックな程に掘り下げる。結局はこれが上達への近道。

2007,1,5

 

 

第六十講

≪買うだけが能じゃない≫

 

大槍は良い鍛錬になるという事で、高いお金を出して購入する人もいます。

流儀にもよりますが、中国武術の稽古で使う棍にはしなりが大事なので、樫なんかで代用するのはイマイチです。

ですが、白蝋の大槍は日本で買ったら1万円以上します。

高額な割に、枝を払っただけの自然木のままなので、形やバランスが均一でない物が大半だし。

それでも旅費をかけて中国へ行って買うよりは安いと思って購入している人が多いのだと思います。

 

そこで私は白蝋の大槍代わりに、ホームセンターで売っている木製の手すりを勧めています。

太いので重量も充分ですし、長さも選べます。ま、強度には多少問題はありますが(笑)。

しかし、値段が安いのが魅力です。

何でも高いお金を出して買えば良いというものでもないと思います。

初心の内から高いものは必要でありません。

工夫し、代用する。それが大事です。

2007.1.6

 

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