遠方で働いていた古い弟子が先日帰郷し、このコーナーの感想を一言。
「書いて欲しくねーなー、と思う事が書いて有りました」。
また言われてしまったか・・・。
すまん、もっともっとぼかして書くようにするから、許せ。(笑)
第三十一講
≪打撃力の二つの要素≫
何年経ってもなかなか“力み”の抜けない人が居る。
一生抜けない訳では無いだろうし、本人も苦労している。
指導する側には、力みの抜けない生徒に教える事を諦めてしまう人もいる様だが、
では何故、力んでいても効く打ち方を教えて上げないのか、不思議だ。
打撃力を構成する要素には二種類有る。
一つには“体当たり”の要素。
もう一つは“全身統合”の要素だ。
“力む”というのは、この“全身統合”で力を出す事に難が有るのだから、
それなら先ずは前者の方法をしっかり教えてやれば良いのだ。
無論、二つの要素が有るのだから、可能なら両方身に付けられれば最高だが。
教えるなら、その人のタイプに合わせて、その能力を最大限引き出して上げたいと思う。
・・・ぼかして書き過ぎたかな?(笑)
2004,2,16
第三十ニ講
≪武術と秘密主義≫
今回の話題は一歩間違うと、私にはその意図が無くても、知らずに人を不快にさせてしまう危険が有ります。
どこまで慎重に筆を運べるか、我乍ら自信が有りません。
万が一、ご不快を与える点が有りましたらご指摘下さい。検討の上、修正を考慮致します。
武術に限らず、凡そ人から人へと伝えられる、あらゆる芸事には“秘密”にされている部分が有る。
この“秘密”は、“秘伝(口伝)”と呼ばれ、門外漢にはまず絶対に公表される事がない。
何故、秘密にするのかと云えば、その“秘密”を知る事で効果が高くなったり、危険な技術になったり、
全伝を継承している者をその他の門人と区別したりする為である。
例えば、武術の場合、自分達の使う技を他に知られてしまっては、いざと云う時に勝ちにくくなる。
これは戦う事が命懸けであった昔日には大問題で有っただろう。
又、危険度の高い技を世間に広めてしまっては、何時悪用されるかも解らない。
なので、そう云う部分については教えなかったり、ぼかして教えたりする事になるのだ。
これが“秘伝”の生まれる理由なのである。
だが、誰にも教えないでしまっては、それらの大切な部分が次の世代に伝わらない事になる。
そこで選ばれた数人の弟子にのみ、面伝口授の形で教える事になるのだ。
それら秘密の部分は、伝書などの紙に書かれる事はなく、且つ、
“ここに口伝が存在する”という事すら、口伝を伝えられていない者には解らない様になっていたりもする。
(余談だが、この様な隠し方は、仏教の秘伝の隠し方と非常に共通性が有ったりする。)
これが“秘伝(口伝)”である。
このような“門外には出したくない秘密”は直接的な技術だけでなく、稽古体系にも現われる場合が有る。
門下生に教えたい事は山ほど有り、やらせたい効果的な稽古も多くある。
それらを限られた稽古時間の中で網羅するには、そこの師範の夫々の工夫が有る。
斯く言う私も、見学者が来た時の稽古は何時もの稽古と少々変えている。
又、“有段者稽古(黒帯研究会)”を作って、一般の生徒とは教える内容を変えているという工夫は、
どの道場、どの流派にも有る。
“秘伝”は何も古流にのみ存在するものなのではないのだ。
だが、この様な秘密主義には落とし穴がある事も又、事実だ。
それは実力のない人でも、「秘密だから見せられない」と言ってしまえば、隠れ蓑とし易い、と云う点だ。
「出来ない」と正直に言わず、「お見せできない」と誤魔化してしまう事が出来るのだ。
余計な事とは重々承知だが、見栄を張らず、出来ない事は出来ないと言ってしまった方が、
とても気分が良いのでは・・・と思うのは私だけだろうか?
“秘伝(口伝)”は決して効果のない、無駄なものではない。
私の本職は僧侶なので良く解るのだが、先程一寸言及した“仏教の秘伝”についても、
それを知る者と知らない者との間には、実力に雲泥の差が有るものなのだ。
ただ稽古が不足している者に、幾ら“秘伝”を伝えても、残念ながら使える訳ではないという事だけなのだ。
2004,3,3
第三十三講
≪綺麗にしましょう≫
今でも旧いタイプの武術家には、
「道着は洗わないものです。陰干しするだけです」とおっしゃる方が居られます。
染めが落ちる、等の色々な理由は解るけど、敢えて言います。
「道着は洗ってっ!」
だってクサイ道着を着てる人に組み付いたりするのって、ヤでしょー?
ヤ。
だから道着はちゃんと洗濯してねっ! お願いだからっ!(笑)
第三十四講
≪護身術と武術≫
『過去の雑談』の内容と重なるので余り詳しく述べないが、武術と護身術は同じ物ではない。
(私的には護身術、武術、武道、格闘技の四者を分けて考えている。)
結論から言えば、護身術というのは
“可能な限り危険を回避出来る判断と行動を身に付けること”
“いざと云う場合には逃げる時間を稼ぐ為の技術”
であって、戦わなければならないような状態に陥らない様にする事が第一義なのである。
防犯ベルの活用や、携帯電話の使い方、気の配り方、声の上げ方一つも、重要な護身術なのである。
相手と抗戦しなければならない状況になるのを避けるのが、護身術なのだと言って良いのだ。
又、襲われる方は殆どの場合が襲う方と比べて圧倒的に弱者なのだから、
万が一、抗戦しなければならなくなった場合は、素手で戦う事は考えない方が良い。
持ってる物や、その場で手に入る物は何でも使って身を守る、これが基本である。
武術などを学んでいて、或る程度、攻防の基礎が出来ているのなら、ボールペン一本がかなり効果的な武器となる。
襲って来る相手が“本気”でなければ、大声一つや防犯ベルの音で逃走する可能性も高い。
但し相手が“本気”で襲って来た場合には、かなり厳しい展開となる。
こうすれば助かる、というような絶対策は無いのが現状だ。ケースバイケースとしか言いようがないので、
そういった点からも誤解を防ぐ為に、ここでは素手の具体的な対処例は述べない。
生兵法は怪我の元。何より大切なのは、危険な状態を事前に避ける事なのだ。
ここで誤解して欲しく無いのは、私は護身術の稽古や道具が無意味で無駄なものだと言っている訳ではない。
“これをやってるから大丈夫”。“これを持ってるから安心”。
という、変な安心(即ち誤解)をしてしまう事に注意を喚起したいのだ。
護身で重要なのは、危険を事前に察知し、危ない状態に陥らないように最大の努力を払う事である。
稽古や道具を持つ事で過信し、自分から危険に飛び込むような事は厳に戒めねばならない。
2004,3,16
第三十五講
≪ヌンチャクについて≫
“ヌンチャク”と云えば多くの人はブルース・リーを連想するでしょうが、
昔から、「ブルース・リーの使い方は正式の使い方ではない」と言われてきました。
空手では、空手の型同様にキビキビした使い方をします。
中国武術では、片手に持って振り回す様に使います。
ブルース・リーは言ってみれば、この中間でしょうか。
これほど多種多様な使い方が有る中で、何を以って“正式”とするのか解りませんが、
彼が映画の中で、あれ程ヌンチャクの強烈な印象を与えなければ、
未だにヌンチャクは一部の人しか知らない、特殊な武器だったろうと思います。
いきなり因縁を付けられたのでヌンチャクを振って見せたら、喧嘩が収まってしまったという話もあります。
まさか街中を所持して歩く訳には行きませんが、そういう意味でも護身用にピッタリでしょうか。(笑)
これもブルース・リーが映画でヌンチャクの破壊力を印象付けた効果かと思います。
2004,3,22
第三十六講
≪千招知るより一招に熟せ≫
古流を学ぶ人の中には、自流の技数の多さを誇り、それを根拠に
「現代武道には技がない」と言う向きがあります。
ですがそれは、間違った考え方だと私は思います。
例えばワンツーとローキックしかない武道が有ったとします。(そんな流儀が有ると仮定して)
ですがそのワンツーとローキックを、どんな状況でも相手に叩き込める程訓練しているとしたら、
それは立派な技とは言えないでしょうか?
あたら技数ばかり多くても、その全てが実用に耐え得ると云う訳では有りません。
色々な技を知っているより、一つで良いから、絶対の技を身に付ける事の方が遥かに役に立ちます。
最初から少ない技を練り込んで行く流派。
多くの技を稽古しながら到達しようとする流派。
どちらかが正しく、どちらかが間違っている訳では有りません。
両者共に優点、劣点が有ります。
自流を一番とする余り、他流を正当に評価できないのは、狭量だと私は思います。
2004,3,22
第三十七講
≪“力を抜く”・補足≫
肩の力みがナカナカ抜けなくて困っている人も多いと思いますが、
実は“肩の力を抜く”為の、具体的な練習方法が幾つか存在します。
その一つはとても簡単なもので、まこと簡単に肩の力みを抜く事が出来ます。
但しこれは持続的な効果ではなく、1日経つと元に戻ってしまうので、
日常の稽古に取り入れて行く事が大切です。
肩の力が抜けると自分でも驚くようなパンチが出ます。
或る意味秘伝なので、この場で具体的な方法をお教えできないのが残念ですが、
それはおそらく誰でも知っている方法です。気が付かないだけなのです。
2004,4,20
第三十八講
≪自分を知ろう≫
自分の長所は割と見つけにくいものだが、短所は比較的見付け易い。
長所を伸ばすと同時に、短所をしっかり見付けて克服しようとする事はとても大切だ。
武術に限らず何事に於いても、自分の短所に直面するのが嫌な故に、
他を軽んじたり、自を過大評価するなどして、弱点から目を逸らしている場合を時折見受ける。
だがそれでは一生進歩は望めない。
自分の短所は何処に有るのか。
テクニックなのか、スタミナなのか、スピードなのか、パワーなのか、
メンタルなのか、練習量なのか・・・等々。
それらを知って克服に努める事はとても大切だ。
例えば、身長が低い、というのは欠点では無いが弱点では有る。
それを克服するには、それなりの工夫と汗とが必要なのである。
2004,4,21
第三十九講(?)
≪悲しくも更新が遅い≫
このコーナーの更新が遅いのには理由がありまして、
誰もが知っている事ばかり述べても意味は無いし、且つ、話題を
(色々な意味で)ここで書いて差し障りがない程度まで足し引きしなければならないからです。
これは結構面倒な作業で、何時も成功しているとは言えない状態です(苦笑)。
なので、ネタ自体は結構あるのですが、書き始める迄、躊躇っていたりします。
実際、具体的な方法はここでは述べられませんしね。それが難しい所でも有ります。
それに、自分の中では、段々“アドバイス”というよりも
“武術雑記”になって行きそうな気配がするこのコーナー。
このまま行くと、なし崩し的にお得意の“雑談化”してしまう事が有りそうで怖すぎる(笑)。
そんな訳で、更新がゆっくりだったりするのです。
2004,4,23
第四十講
≪自信が持てない≫
何年武術を学んでも自信が持てない・・・という話を時々耳にする。
だが一寸考えてみて欲しい。
人は誰しも自信なんてないのではなかろうか?
だからこそ努力するのではないだろうか。
だからこそ、高みに立てるのではないだろうか。
それを持つ事で満足してしまい、努力を止めてしまうような“自信”なら、持たない方が良いとすら思う。
又、何年やっても人並みの自信すら持てない、と云う人は
ホンキで稽古に打ち込んだ事が有るのだろうか?
何となくテキトーに稽古を重ねて来ただけで、必死になって稽古に取り組んだ事が無ければ、
自信なぞ持てるものだろうか?
自信がない、自信がない、と言いながら、本気で取り組まないのでは、
自信を持つ事は難しいのではなかろうか。
そして、万が一、自信が無い事の結果として、“人格向上”を言い出す様になったとしたら、
余りにも淋しいのではないだろうか?
武術に限らず何事においても、“必要最低限度の自信”は
一所懸命に取り組む事の結果として、自然に出てくるものだと私は思うのだ。
2004,5,3