第九十一講
≪教えるのもキャリアが大事≫
今日の話題は、以前書いた
≪教えるにも年齢≫という講義と内容的には被ります。
人が武術や武道を学ぶ目的は様々でしょう。
強くなりたいという人。
健康目的の人。
護身術として学びたい人(厳密には武術と護身術は違うので分けました)。
単純に武術がやりたい人。
覚りとか、人格形成が目的で、武術にも手を伸ばす人。
・・・色々だと思います。
学ぶ方はどんな目的でも結構なんです。
自分の目的に適った道場を選べば良いのですから。
問題は教える側です。
上記挙げた全ての目的の人に応じた指導は出来るでしょうか?
多くの道場、師範は指導できる方向が偏ってしまいます。
私も20代の頃は、強くなりたいと思う人にしか上手く教えられませんでした。
何故なら、自分がその目的でのみ稽古して来たからです。
しかし、武術を初めて20云年。
じょじょに様々な目的に応じて、教えられるようになって来ました。
これは矢張り、自分自身の成長が大きいのです。
端的に強くなりたい人に対してなら、とりあえず套路なんかいりません(笑)。
護身目的の人になら、根本的な考え方から違って来ます。
健康目的や武術を楽しみたい人相手なら、套路(型)は欠かせません。
本格的に武術をやりたい人には、全ての稽古内容が欠かせません。
教える側として、その様な多様な目的に応じて
最善の指導が出来る様でなければ、良い指導者とは言えないのですよね。
「俺は強いから良いのだ!」と威張ってみた所で、世には受け入れられないのです。
青少年の健全運動から、女性の護身術。
奥様がたの健康体操から、最強を目指す若者まで(笑)。
↑なんかのキャッチコピーみたいだなー
全ての目的に対し、良い指導・アドバイスができねば指導者として力量不足なのです。
ま、「私の専門方向は●●の分野なので、それ以外の目的の方には上手く教えられないですよ」
と割り切れるなら、話は簡単なのですけど。うん。
指導し始めの頃は、どうしても自分のやってきた方向性に偏るものです(笑)。
そこを越えて、ようやく“良い武術師範”になれるものなのです。
・・・って、偉そうに言ってるあたしも良い武術師範かどうかはちょっと疑問ですけど。
あ、そうそう。中国武術では“型”の事を一般的に“套路”と呼びます。
で、最近日本では空手の世界などで、「型より形と表記するのが正しい」という人もいますが、
このサイトでは一昔前から一般的に使われてきた、“型”を使っています。
普通の人から見れば、“形”は“かたち”と読む事が多いようです。
“かた”と読むのは“型”なんじゃないかな?(笑)
因みに、今かなり酒入ってます。
文章、さっぱし纏まらんーーごめん m(__)m
2005,5,7
第九十ニ講
≪どっちが優れてる、とかじゃなくてさ≫
現代武道(格闘技)と古い武術の最大の違いは、体さばき(歩法)にあります。
武器を使う場合、体さばきこそが重要になるから、
古い武術では体さばきを重視するのです。
相手の刀を自分の刀で受けとめる!なんてーのは、
時代劇のハナシです。
・・・とはいえ、実際に武器を持って殴り合いすれば、
受け止めなきゃならない場合も多々あるんですけどね。
まぁ、そういう体さばきが重要ってコトです。
もっと細かく具体的な事も書きたいのですが、やっぱり一寸ね・・・。
2008,5,8
第九十三講
≪繰り返しが多いのは・・・≫
やれば解るんですが、柳生心眼流には繰り返し(同じ動き)が多いです。
基本21ヶ條は殆どが似た動作から構成されてます。
心眼流の事をご存知ない方の為に、基本21ヶ條について簡単な説明をしますと、
心眼流を習うと一番最初に教わる型は、7本×3種類で構成されています。
3種はそれぞれ、表ヶ条。中極。落し。と呼ばれますが、
最も基本型の動きの、部分部分を取り出したり、少し変化させたりして21本にしている感を受けます。
基本21ヶ條の中に、全く別種の動きは数種しかないのです。
だから、“こんなに何度も同じ動きばかり練習する必要ないよねぇ”と思ってしまう人もいる筈かも知れません。
・・・まあ、名人と呼ばれるようなレベルの人なら、
その内の特徴的な数本を振れば、稽古としては十分なのかも知れませんしね。
専作伝心眼流で本数が減っているのは、そういう理由も有っての事なのか?
しかし、名人なら兎も角、我々には繰り返し同じ動きを練習する事が大切だと思います。
同じ型の部分を取り出して、別の技にしている、というのは大きなヒントでもあります。
型には無い攻撃への対処法も、型の“部分”を使ったり、変化させたりすれば良いのだ、という示唆ともなります。
心眼流に限らず、伝統武術の型には同じ動作の繰り返しが多いのです。
太極拳にしても、少林拳にしてもそう。同じ動作が何度も出て来ますよね。
なぜ、同じ動作を反復するのか?と言えば、そりゃー重要な動作だから繰り返すと言える訳です。
その反復をなくし、左右に片寄っている動作を均等に直したのが、簡化太極拳などの制定太極拳なんですけどね。
動作の片寄り(右側しか無い動作があるとか)については、ここでは触れません。道場でお話します。
2008,5,16
第九十四講
≪練習は自分でしなくちゃね!≫
『練習量が多い人=上達が早い』のは、誰でも解ってる通り。
上手くなりたいなら、自主練習をしなきゃなりません。
毎日道場(や練習場)が使えて、コーチが指導してくれるような所や競技なら、
自宅での稽古は不要かも知れませんが。(笑)
でも、そんな恵まれた人ばっかりじゃないですよねー。
だから、家で練習して身につけるのです。
道場は、新しい事を習ったり、正しい動きに修正して貰ったりする場所です。
その教えて貰った事を身に付けるには、自分で練習しなくちゃならないのです。
結局、上達のコツは、出来るだけ多く道場に来る事と、
習った事をちゃんと復習(稽古)する事です。
2008,5,20
第九十五講
≪武術の楽しみ≫
武術(武道)を学ぶ人は、たぶん自分の弱さを知っており、
その“弱さ”(弱い自分)を克服しよう、強くなろう、とするのだろう。
でなければ、何も武術でなく、他のスポーツでも良い筈。
だから、最初はやたら“強さ”にこだわるのだ。
(武術やってる人の中には、この段階で止まっている人も多い。)
しかし、多くの練習者は段々と“武術の楽しさ”そのものにとり付かれて行く。
では、武術の楽しさとは何ぞや?
身体を動かす事の楽しさ。
新しい技や型を学び、憶える楽しさ。
目から鱗の技、身体運用。
出来なかった事が努力によって出来るようになる事の嬉しさ。
時々見る、師匠の神技。
スパーリングの時の緊張感、高揚感。
などなど。
どれを取っても、とてつもない魅力なのである。
この魅力に気付いてしまった人は、もう武術をやめられない(笑)。
そうして“楽しいから”、“好きだから”と続けていると、
そのうち、違う段階を見ることが有るかも知れません。
心眼流で一番最初に貰う伝書には、
「分け登る麓の道は多けれど 同じ雲井の月を見る哉」
との道歌があります。
「そこから見える、同じ景色」と云うのは、
技術の事などではなく、
精神的なものであるかも知れませんよ。
2008,6,5
第九十六講
≪自己流に関して≫
自己流で何かを学んでいる人は何時の世にもいる。
それでご自分が納得しているのであれば、問題無いと思う。
その場合、あたしが何か言うことぢゃないわ(笑)。
問題が出て来るのは、自己流でやって来た人が弟子を取る場合だ。
自己流でやって来た人が、「俺は自己流だよ」と言ってくれてるなら、これも余り問題無い。
弟子になる人は、“この人は自己流だが、凄いから習いたい”と、納得の上で習うのだろうから。
しかし、多くの自己流者は「俺は自己流だ」とは言ってくれない。
酷い時には経歴詐称なんて事もあるようだ。
自己流でも強くは成れる。多分。
でも、自己流者が責任持って人に教える場合、何から教えれば良いのか解らないのでは?
例え自分は強くても、弟子を強くは出来ないかも知れない。
若しかすると、
色んな事を少しずつ齧って、どれも中途半端な人に習うのもそれと同じかも知れない。
私の知っている人に、そういう人が居る。
器用なのだが、あれこれ一寸ずつ齧ってあとは自己流で練習してきたので、
誰かに教えるとなると、何から教えて良いのか解らないみたいだ。
だから基本中の基本から教えるのではなく、派手な技を教えたり、
あれを教えたかと思うと次の瞬間には別の事を教えたりする(笑)。
器用さにも助けられ本人は上手なのだが、これでは教わる方が混乱してしまう。
それでも、この人は一寸ずつでも人に習った事があるから、まだマシかも知れない。
基本を知らないっていうのは、こういう事になる。
自己流にも2種類有るだろう。
A ビデオなどで基本や型を学ぶもの。
B 完全に自分のやりたいようにやっているもの。
これを比較すれば、Aの方がマシだろう。
たとえ見よう見真似であっても、
型や基本を熱心にやっている内に、大事なことに気付く可能性が有るから。
ま、武術、武道の世界は昔から「一人一流」と言われてもいる。
同じ先生に習ったとしても、自分の工夫が必須だから、長年やってる内に、どうしてもその人の個性が出る事になってしまう。
同じ流派の伝承者であっても、皆動きが違っているのはそのせいである。
でも、それは“自己流”って事ではない。
きちんと習った人には、人を教える為(生徒を導く為)の方法論というのが有る。
それが“流派”のやり方というヤツなのである。
故・佐藤金兵衛先生の本(『柔術入門』)に、
「流儀が正しい武術を伝えているならば、指導者の技法(わざ)が多少まずくとも当人の努力次第で道を得る事は可能である」
と有るのは、これを言うのであろう。
武術や格闘技なんかやってなくても、ケンカ強い人はいる。
でも、そういう人にケンカの方法を習っても、自分が即ケンカに勝てるかと言えばそうでもない。
何故なら、それは“その人のやり方”だからだ。
彼等は生来の負けん気の強さ、パンチの強さ、判断の良さ、カケヒキの上手さなどが上手く働いているのだから。
気の弱い人がそれを習ったって、使える訳も無い(笑)。
なんであれ、習って実用にまでこぎ着けるってのは、ただ師の真似をするだけではダメで、
それには矢張り自分なりの創意工夫は大切である。
その創意工夫の部分が“個性”になるのだ。
・・・あれ? なんだか論点がずれちゃったよ。
別に僕は、自己流は全てダメだ、なんて言ってるんじゃない。
色々な技術の研究は大いにすべきだし、
学びたい事が有るのに、教えてくれる人や場所がなければ、独学もやむを得ないだろう。
ただ、最初から最後まで独学ってのはなぁ・・・という話をしてるんである。
基本となる核が有った上で、独学するんなら大いに結構!なんじゃなかろうか。
自分で学ぶ!という気概が無いんじゃ、先生に習っても身に付かないし。
でも、結局独学ってのは、悪い部分を直し難いんだよ。
自分じゃ、なかなか気付けないからさ。
2008,6,11
第九十七講
≪型と実用≫
套路(型)と実用は繋がっているか?という議論は昔から有るようです。
スパーリング(組手)をやってみると、練習していた型通りにはとても動けないので、
「型は使えない」と、型を捨ててしまう場合も有るようです。
結論から言えば、
“型の目的は別に有るのだ”、という意見もあり、これに概ね賛成です。
でも、そう簡単に型稽古は無意味と決めてしまって良いものでしょうか?
型を多く練習している時は、自由攻防の中で型そのままの動きが出て、
自分でも驚くような技の決まり方をする事が有ります。
とは言え、自由攻防の中で最初から最後まで型通りの動きをしようというのは無理があります。
型の技というのは所々に出たり、型の要素は動きの中に含まれているものです。
そして、それが自然です。
私の一番最初の師は、「型は無意味なもの」として教えませんでした。
その先生の練習は、基本と、防禦練習、組手から稽古がなっていました。
あと、ちょっとビックリするような技と(笑)。
で、その相手の攻撃の受け方は、伝統的な空手で稽古するような内受け、外受け、下段払い、あげ受けなどでした。
こういう「型通りの受けは使えない」と云う人もいますが、やった者として言わせて貰えば、それは一寸違うと思います。
これしか知らなかった当時の私は、それのみ練習して、相手の速い攻撃もその動きで受けられましたから。
また、この受け方をすると、相手の手足を痛める事ができ、戦意を喪失させる事も出来ました。
後年、この類の受けは武器術の時や、護身の場合に活きる事を知りました。
だから私は、「基本の受けが無駄なもの」とは思っていません。
ただ、素手の自由組手の場合には、もっと簡便な受け方が有るのは事実です。
両者、“受け”の目的が違うのでしょう。
一寸余談に流れましたが、
私は一番最初、型を教えない先生に習い、それで満足していました。
が、ある時、武道をやっている連中が集まった酒席で、それぞれ演武しよう!となった時に困りました(笑)。
型を知らないと、突きや蹴りを繰り出して圧倒するしかないんですもの。
酔ってるとキツイよ、それって。わはは。
で、皆さん「流石だねぇ。突き蹴りの風を切る音がするもんね」
と誉めてはくれましたが、空手の型を演武する人を見て羨ましく思いました。
で、型を学ぼう!と決めました(笑)。
そんなやや不純な動機で型(伝統武術)を学び始めたのですが、やってみるとこれが面白い。
特に、内家拳の型に内包されている情報量には目を見張りました。
最初は型なしのスタイルから入った私ですが、今は型が好きですね。
「型やらずして武術とは言えない」と思っています。
また、型の動きは“相手がこうした場合、こうする”という状況では非常に効果的に使えますし、
その用法説明も感動を呼びます(笑)。
このような状況では、型の動きが完全にそのまま使えます。
しかし、型は自由攻防で効果が出るまで、まどろっこ過ぎます(笑)。
だから、端的に強くなりたければ(自由攻防で効果を上げたければ)、自由攻防の中で出て来る技術のみに焦点を絞って練習するのが早いです。
現代中国で競技として成立した“散打”はこれですね。中国式キックボクシングです。
(ボクシングは型稽古なんかやらないけど、強いでしょ。型に割く時間があれば、より即応の練習をしているのです。)
そういう意味で、型の無い所からスタートした私には、型を捨てた流派にも非常に親近感を覚えます。
実際、そういう流派で練習してる人達って強いですよー。
型は稽古していると、ある時、ハッと気付くものが有ります。
例えば、八卦掌や形意拳などの戦い方を教われない場合、
型を黙々と練習してみて下さい。
きっとある時、この手はこうか!と気付きますよ。
そしたらそこから全部繋がります。
これが96講で紹介した金兵衛先生の
「多少先生の技が拙くとも、流儀さえしっかりしていれば、本人の努力でなんとかなる」って事です。
真剣に稽古してないとダメですけど。
“こんな事役に立つんかいなぁ?”とかって、テキトーにやってても運動しないよりは良い、って程度になってしまいます。
密教の行と同じ。真剣にやらないと、茶番になってしまいます。
昔から、「一人稽古は実際に相手と戦うつもりで。相手と戦う時は相手が居ないつもりで」
なんて事を言いますが、これって大事なことかも知れないですね。
・・・でも、自由攻防の練習をしていないと、どんなに良い事に気付いても、
想像してた以上の相手の動きの速さやコンビネーション、破壊力などに引っ掛かって使えませんけどね(笑)。
逆に、普段から自由攻防をやっている人なら、その気付きが活かせますよ。
その時、“うお!型ってスゲェ!”って思うんです。
ま、自分で気付くより、教えてくれる先生に出会えれば最高なんですけどね。
良い先生に会ったとしても、自分なりの気付きってのは必要なんですが。
詰まる所、型が“全く”役に立たないという人は、
決定的に型の練習が不足しているか、または、自由攻防の練習が不足しているかだと思います。
な~んか全然文章まとまんねー。
このままアップしていいっスか? だめ?(笑)
2008,6,12
第九十八講
≪覚悟が決まれば≫
先日知り合った、ある武道初心者の方との会話を紹介します。
お互い多少飲んでいるので、会話が物騒です(笑)。
「(こんな事は有り得ないのですが)自分は武道を始めたばっかりなので、
なにか有った時に戦力にならなくて、先輩達のお荷物になるんじゃないか、と心配です」
「そんな事ないと思うよ。まだ弱くて“自分は戦力外だ”と嘆いてるのかも知れないけど、
覚悟さえ決まれば、充分戦力になるよ。
万一そんな状況があったら、
強い敵にしがみ付いて、味方が倒す手助けをすればいい。
敵が武器を持っていたら、その武器ごと抱えてしまえばいい。
例え片腕が折れていたって、その手で髪を掴んで、空いてる手足で
相手を抱え込んで動きの邪魔をすればいいんだ。
こんな風にすれば、武術を始めたばかりで未だ弱かろうが、
怪我していようが、足を折ってようが、戦力になるよ。
・・・でも、それって覚悟を決めなきゃ出来ないよね。
覚悟さえ決まれば何でも出来る。
逆に言えば、覚悟が決まらないと、どんなに相手より技術があっても
勝つことは難しいよ。
最後は技巧じゃないよ。
戦いはね、先に覚悟を決めた方の勝ちなんだ。」
「そうですか。なんか目から鱗落ちました。
・・・それにしても、だいぶ修羅場くぐってるんでしょうね」
「修羅場? 二人の恋人が鉢合わせするとか?・・・あれってきっと、かなりの修羅場だよね~。ばっはっはっ」
と、ここまで喋って気が付いた。
俺ってば結構カッコイイ事言ったのに、最後で台無しだぁ!
いや~~ん。
2008,6,15
第九十九講
≪講義と云うにはおこがましいが≫
健康太極拳の教室なら別として、中国武術の教室は月謝が高い。
稽古が週1で、月謝1万円なんて所もザラに有る(>_<)
日本の古武道は極端である(笑)。
凄く高額な道場も有れば、南方心眼流のように殆ど無料って所も有る。
中国武術の道場が高額なのは、恐らく先生たち自身が高い月謝を払っていたからだろう。
相手が日本人だと思うと高い謝礼を取る中国人の先生がいたり(笑)、
中国や台湾から先生を招聘するにも、かなりの金額が掛かったろうから、
どうしても月謝が高くならざるを得なかったのだろう。
私が習った或る先生は、
「昔、中国では金持ちは武術やれ。貧乏人は学問やれ。
と言ったんだ。武術はその位お金が掛かるんだ」
と言ってました。
でも、今はそんな時代でもないよね。
やりたいと思う人が気軽に学べるように、私はその半分で教えたいと思ったよ。
会場費と移動のガソリン代、後は少しの酒代になれば(笑)良いと思ってさ。
でも、あんまり安いと、自分が毎週教えに行くのがイヤになるから、
指導に対する責任を感じる程度の金額を貰う事にはしたのよ。
又、社会人も多いから、夜の遅い時間を選んだ。
実際、余りに金額が安かったり、タダに近いと先生が来なくなるんだよ。
南方の先生も殆ど自分の儲けにならないから、一寸した用があると道場に来ない(笑)。
老先生が教えに来るようになってからは、全くと言って良い程顔を出さない。
そのうち古い生徒が中心に指導する事になってしまう。これじゃ本末転倒でしょ?
2008,6,15
第百講
≪そんなの俺の自由だべした≫
中国人は
「日本人は人目を気にする。日本は中国より空気が綺麗なのに、屋内で練習する。外で練習しないのは勿体無い」
と言う。
「中国人は自転車に乗りながらでも練習するよ。人目なんか気にしない。
自分の練習だもん、他人の事なんかどーでも良い。他人の視線を気にして練習しないのはモッタイナイよ。
他人が自分の代わりに練習してくれる訳じゃないよ」
私もそう思う。同感。
でも、実際今の日本人は外で武術を稽古している人間を奇異の目で見るのも事実だよね。
ま、私はそんな視線は無視してるけどさ。なんせ協調性ゼロだもんでね。
私の弟子が公園で形意拳を練習していたら、ケーサツに連れて行かれたそうだ。
誰かが 「怪しい奴がいる」 と通報でもしたんだろう。
又ある弟子が、会社の同僚に
「近所の公園で太極拳みたいのを練習してる若い男がいるんだ。あーゆう奴が人殺ししたりするんだよな」
とかって言われたらしい。
キサマ、バカか?
庭の広い家に住んでる奴なら良いが、多くの人は狭い敷地に住んでいるのよ。
稽古しようと思ったら、河川敷や公園に行くしかないだろうが!
それともナニか? 決められた屋内で、決められた時間だけ、練習しろってか?
だから強い武術家が輩出しにくいのだ。
皆で大いに屋外で稽古し、“稽古するのが当り前”の日本にしようぢゃないのさっ!
武術家の地位向上っ!
「日本にも武術家が存在しているんだぞ!」と大いに声を挙げようではないか!
世間の無趣味な人間なんかに付き合ってられるかい。
俺たち武術家は、練習するのに特別な施設も作って貰う必要はない。
だから環境も破壊しないのさ。
ゴルフを見ろ。
スキーを見ろ。
ダイビングを見ろ。
ぜ~~んぶ環境に手を加えるじゃないか。
武術ってのは、最も地球に優しい趣味の一つなんだぞっ!
万一あたしがケーサツに連れて行かれたら、
「私はゼーキンを払ってるんだ。日本国民である。国民の三大義務も守っている。
その日本国民が公園で稽古してはいけないと云うのは何故か?納得できる理屈を語ってくれ」
と、取りあえずゴネてみるつもりだ。
世の中って結構ゴネ得だからな。
・・・ま、こんな理屈が通じるかは知らんがね。
って、このコーナーも100回になったのか。
記念すべき100回目が、こんな半分ジョークになっちまって・・・
ごめん。
2008,6,18