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第百五十一講

≪習っている拳法の動きがスパーリングで出ない≫

 

という悩みをお持ちの方って案外多いとか。

で、「武術の型なんか役に立たないや」と捨てちゃうと。

それは勿体ないんだよな(笑)。

いや実際、若い人が端的に強くなりたい!なら型なんて要らんのです。

型やってる位なら、その時間に、突き蹴りやサンドバック、スパーリングやってればよっぽど強くなれるのです。これは現実。

私だって“強くなりたいんです!”という若者には特定拳法の型なんて教えやしませんよ。

型の理合が戦いに現れるまでには一寸時間がかかりますしね。

 

んでは型の意味ってなにか。

型稽古で得られるものはパンチやキックの練習、サンドバックやスパーリングなどで得られる強さとは、一寸違うもの。

恐らく、その一寸違うものを手に入れたいという思いで型を稽古している人も多いのでしょう。

 

さてと、表題の話に戻します。

まずはスパーで型の動きが出ないのは当たり前。

実は、型通りに動く事が大事なんではなく。

動きに、如何に練習している拳法の理合が出ているかが重要。

最初は練習している拳法と全く違う動きでしか出来ないスパーリング。

しかし何より一番最初に大切なのは、先ずは相手の攻撃を防禦し、攻撃を入れられること。

これ出来ずしてどんな優れた拳法の動きも使える訳もない。

年数をやっているうちに、スパーの中で拳法の動きが出てくるようになる。

それは型通りの動き、という意味ではない。型で身に付いた拳法の理合。

 

教えている方もプロなので生徒達の動きを見ていると解る。

“今のは形意拳の理合が出たな”とか、“今のは八卦の理合が出たな”とか。

こうなって来たら、より高度な技の使い方を教える訳で。

その教わった動きを今度はスパーの中で実際に使う為に試して行く事になる。

こうなればそれはもう完璧に中国武術であるのです。

 

最初から習った通りに使おうなんて無理である。

そんなことを考えていたら好き放題やられてしまう(笑)。

それは習ったことを出そうとして、不自由になっているからだ。

自由でなくば戦える筈がない。

套路や対錬を長く練習して、自由な動きの中でもその拳種の理合いが出るようになるまで稽古するのです。

型の稽古と同時に、スパーを行なって攻防に慣れて行く。

きちんとした過程を経ていけば、武術の型は練習して無駄などという事はない。

 

スパーリングは最初の内は習っている武術の動きなどは全く出ず、

“何の為に武術(型)をやってるんだろう?これならスパーリングだけやってたほうが良いんじゃないかな”

と思ったりもするかも知れない。

が、やはり段々に只の打ち合いだったスパーに武術の理合が現われる様になって来る。

生徒が『指導日記』に感想をくれた、「読めない動き」、「頭が付いて来ない動き」

というのは型(套路)を介して身に着いたものである。

皆さんも、楽しみながら取り組んで貰う内にちゃんと身に着く筈です。

 

 

実際に戦う為にはスパーリングは必須な練習です。

でなければ相手の攻撃すら躱す事ができないものですから(笑)。

が、スパーリングをやりたくない人にまで強要するのは間違っています。

スパーリングをしなくても、ある程度の強さを身に付けさせる事も良い指導者なら出来ると思います。

そりゃー無論、スパーやった方が強くなるのは早いですし、スパーを頻繁にこなしている人には、
スパーをやらない人はなかなか勝てないですけどね。でも、それで充分って人もいる筈です。

 

多忙の最中なので、残っていたネタをごちゃ混ぜにしてアップしてみました。

なので酷く纏まりに欠けてますが(決して悪文の言い訳ではない!)、今回はそんなオハナシでした。

2011,1,21

第百五十二講

≪小心な自分を変えたい?≫

 

街で他人と目が合う(ちょっと睨まれた感じ)になると、その相手が素人ですら怖いという人がいます。

そんな自分を変えたい、のだと。

しかしそれで良いんじゃないでしょうか?

恐怖心を持つというのは正解だと思いますね。

持っていないのは問題ですよ。

(私が思うに、目なんてハナッから合わせなければ良いんじゃない?)

 

 

まぁでも、考えてみて下さい。

私達は、彼等(街にいる一寸怖い人)がお酒を飲んだりタバコを吸ったり、

賭け事やったり、シンナーやガスパンやら(←喩えが極端?)に時間を使っている合間に、稽古しているんじゃありませんか。

普通の人が遊んでいる間に、戦う為の練習を積んでいるんじゃないですか。

より良く動く身体を作り上げる為に套路(型)を練習し、

サンドバックやミットを叩き、

走りこんだり、縄跳び飛んだりもし、

スパーリングで殴り合いを重ね、技を磨いたり、

手や足を壁に打ちつけて鍛え上げてるんじゃないですか。

時に、疲労や痛みで床に大の字になったりしながら(笑)、それでも稽古しているんじゃありませんか。

そんな我々が、まともなスポーツすらしてない人に負ける訳がありません。

 

稽古は積んでいるのです。万が一の場合、後は始める時のタイミングを間違わない事だけです。

“やる”となったら先に先にと殴る事です。

その決断は早くする事です。

やったら身元の解る物は絶対そこに残さない事です。

 

さあ、こう言われると随分自信が持てたんじゃないですか?

しかし、本当は先に述べた通りで、怖いとの気持ちを持たないよりは、持っている方が良いのです。

やってしまうより、やらない方が良いのです。

 

訓練している者に、遊んでいる者が敵う訳もありません。

ここまで言われて、それでも自信が持てないのであれば、練習が足りないだけです。

全ては稽古量です。

 

そして、その内、そんな事すら気にならなくなりますから。

 

 

 

今回の話はちょっと物騒過ぎたかも知れません。若しかすると反感を持つ人もいるでしょう。

断っておきますが、私は暴力を肯定する者ではありません。

“自信”の話をさせて頂いただけです。

読む人が悪意を持って読まない事を願います。

稽古で培った自信、冷静な判断力や行動力などで、腕力に頼らず物事一切を解決する人物になれたら、
武術をやったかいがある、というものではないでしょうか。

2011,2,20

 

第百五十三講

≪余裕が出来たらやってみよう!≫

 

ある程度武術に慣れたら、酔拳や地堂拳などの、

(地堂拳=酔っ払った動作の無い酔拳をイメージして貰えれば大体当たりです)

転がったり、飛び跳ねたり、倒れ込んだりする拳法も一つ位はやってみると良い、というのが私の持論なのです。

というのは普通の人は相手に綺麗に投げられたり、転倒させられたりすると、
“参った(やられた!)”と感じるものですが、転倒系の技法に慣れると、

倒れたからって負けじゃなく、

倒れてからの技もある、

倒れながら掛ける技だってある、

と思うようになるからです。そういう技が身に付くと、余裕が出来るんですね。

実際、投げ飛ばされようと上手く転がされようと、まだ動けるのならそこからです。
その状況すら利用するとの積極性が出来るのです。

地面に叩きつけられて気を失ったり、骨折したりして、もう動く事が出来ないのなら兎も角、動ける内は大丈夫です(笑)。

倒される(負かされる)までは負けではありませんし、倒されるまでは倒れません。

 

私が毎月一回、道場で皆に跳んだり伏せたり、転がったりして貰っているのは、そんな事も理由の一つです。

2011,6.19

 

 

 

 

第百五十四講

≪武術と健康!①≫

 

中国武術では、指と内臓の繋がりとか、各技はどの臓器と関係が有るか(影響するか)といった

身体の細部に亘って(流派によっては)考えられているのですが、これは東洋医学との関連が深いようです。

中国の思想では武術も医術も同根の様です。

 

人間は自分の意思では内臓を動かせません。

が、横隔膜、つまり呼吸器関係だけは意識的に動かす事が出来ます。

故にこれを利用して他の臓器や体全体に影響を与えて行こう!という考え方もあって、健康の為にも呼吸と動作を重視します。

 

中国の武術が健康効果が高いと言われているのは、その様な東洋医学の考え方などが含まれているからだと思われます。

 

何処まで本当かは解らない話なのですが(笑)、

聞いた所によるとチベットの高僧やインドのヨーガ行者の中には、ある程度心拍数のセーブも出来る人が居るそうです。

それによって多少、死期をコントロール出来る人もいるとか。

『ゾウの時間ネズミの時間』という本によりますと、哺乳類は一生の呼吸・拍動の数が大体決まっているんですって。

なるほど。

私は到底そんなところまで修行できていないので実証できませんが(笑)、坊さんの世界では、そんな類いの話は未だに良く聞きますね。

 

まあ、それが多少事実を誇張した話だとしても(笑)、瞑想などで、長い期間呼吸を使った訓練をしていると、そういう事もあるのかも知れませんね。

 

武術の修行も、お茶や様々の芸事も、最終的には“人としてどう活きるか”だと思います。

武術の訓練も、瞑想(つまり全人格的な開眼の目標)の訓練も、行き着く所は同じでありたいものです。

否、同じであるべきと私は思っています。

 

この話、続きはまたいずれ。(笑)

2011,6,21

 

 第百五十五講

≪武術と健康、から武術と行へ。~武術と健康②~≫

 

人間がある程度自分の意思で動かせる内臓は横隔膜、つまり呼吸器であり、

それを動かして他の内臓にも影響を与えて行く訳ですから、呼吸が重要だ、ってお話を前回した訳です。

 

で、それだけでなく地球の磁力なども(昔の人は解ったんでしょうかねえ?鳥や獣のように)

人間に影響を与えるという事なので、武術の稽古をする際の向き(方向)も指示されます。

 

中国の思想では、この世は陰と陽の性質で出来ており、

人間は陰陽のバランスが崩れると病気になるとされていまして、太極拳は陰陽のバランスを正常に整える働きがあるとされます。

とまてよ、今思い出したのですが(笑)、昔の禅宗の坊さんがノイローゼの人に

「頭上に卵大の融ける物があって、それが融けて全身に流れて行くようにイメージしなさい」

というイメージ療法を与え、それを継続して治ったという話があるんですが、これって頭に偏りすぎた“気”を下げたって事なのかも知れません。

↑一応、“気”という言葉を使いました。

イメージを使い過ぎると偏差が起こる。ノイローゼになると言う武術家もいます。

坊さんの修行の中にも、

「頭(思考・イメージ)ばかり使ってて身体を動かさないとノイローゼになる」からと、身体がちょっとしんどいような物(行)も含まれています。

「心が身体から遊離しないように、身体を使う」と言ってました。

近頃ノイローゼが多いと言われるのは、頭ばかりで身体がなく、現実から遊離しちゃうからかも知れませんね。

おっと脱線しましたか(笑)。

 

形意拳は五臓に影響を与える上、周天(全身に気を巡らす)働きがあるといわれます。

この周天は道教の行、もっと言えばインドのヨーガの影響を受けている様に思われます。

孫禄堂という名人の著作を読みますと、この辺りが実際に出来ていた様ですので、

単に神秘付けや格式付けの目的でヨーガから拝借したというのでもなさそうです(笑)。

武術が“行”になるのは、この部分なのではないかと思います。

「武道をやる事で人の痛みを知り、人格を陶冶(?)する」

という意味の“武道=修行”という構図がありますけど、実際の武道家にはアクが強くて人として付き合い辛いタイプの人が多いので、

“武道という修行”としての、その目的設定は嘘かも知れません(笑)。

↑私も頑固で付き合いづらい男ですよー。

 

武術に限らずお茶でもお花でも、きっとダンスでも、およそ人間の行なう事は、それを徹底的に追求すると

この宇宙と一体になっちゃうってトコなのかも知れません(笑)。

(一体であった事に気付く、との表現でも良いわね)

そうなるとヨーガと同じですわね。

昔はやった武術漫画で“武術の目的は天人合一”つまり天(宇宙)と人が一つになる、

と言うのは正にこの事です。

 

なんにせよ呼吸が大切です。ヨーガも呼吸を大切にしますよね。

私が日本武道をやっていてしっくり来ないのは、この呼吸の部分が疎かにされている気がするからかもしれません。

 

・・・でもまあ、武術の思想にはこじつけにしか思えない物も、確かにあるんですけどね(笑)。

2011,6,23

 

第百五十六講

≪上達の手段だから≫

 

スパーや組手は勝ちゃあ良いってものではない。あくまで稽古の一環である。

ローキックが誤って当った金的蹴りに武術としての意味はない。

狙って入れる金的に意味がある。

2011,6,28

 

第百五十七講

≪不調だって利用する(笑)≫

 

何処か痛かったり、体調が優れない時は稽古をしないのではなく、無理しない程度にやってみるのも悪くないものです。

 

あれは何年も前。私が足を痛めていて、普通に歩くのさえ痛みを感じる日でした。

裏庭でゆっくり形意拳を練習しました。

動きの速さに緩急もつけず。まるでスローモーションのように。

(具体的にはMLに述べた通りです。)

と、突然、全身が繋がっている感覚が実感できました。

中国拳法の図に、

“丹田(下腹部)を中心にして両腕・両足にラインが繋がっている絵”

があるのですが、見た事ありますか? あの図が“体感”できたのでした。

その時、余りの充実感に、単純な掌打を振るだけで“今なら相手が誰であっても掌打の一閃で倒せる”

と感じたものです。(勿論、当たれば、ですけど)

残念な事に、今も毎回必ずその感覚がある訳ではありませんが(というより無い事の方が多いのですが)
あれは確実に一つ上の世界に上がった瞬間でした。

恐らく、力強くスピーディに形意拳を練習してばかりいたら、この感覚は未だに分からなかったかも知れません。

また、これが解ると俄然太極拳が面白くなりますよ。

ホント、残念なのはいつでもこの感覚があれば良いのですが、名人でも達人でもない私ではそうも行きません(笑)。

(その感覚だけ追いかけていると、尚更見えないもんですよ。)

上手く行かんことの方が多い訳です(笑)。

 

これ程でなくとも、以前にも述べた通りで、

例えば足を痛めている時は手だけでスパーをしたり、片手だけでスパーする事で弱点が克服できたり、上手くなったりします。

不調は新たな能力(?)の開発の切っ掛けとなるものです。

 

無理をしろ、と言っているのではありません。

無理しないで出来る稽古をしろと言っているのです。

いつもと違う稽古から分かる事があるかもですよ。

2011,7,8

 

第百五十八講

≪今日は形意拳のお話を≫

 

ちょいと極論になりますが、真意は伝わるものと思います。

 

「五行拳しかない」と言われる事さえある形意拳にも、実は套路は沢山あります。

勿論、系統によって套路数の増減はある様ですけれど。

・・・今回はそのお話なのですが、かなり私的見解であり、
いち形意拳修行者としての個人的な意見だという事を、最初にお断りしておきます(笑)。

 

先生によって色々な考え方があるのは当然ですよね。

套路を多く練習する系統もあれば、五行拳のみで良し、として套路を余り練習しない系統も有るようです。

どちらが正しいか、などという事はなく、取り組み方の違いと言うだけであってどっちでも良いのです。

極論を許して頂けるなら、私は五行拳と連環拳を詳しく習う事さえ出来ればそれ以上は無くても良いだろうと思ってはいます。

 

さて。

形意拳の基本を学ぶ、といわれる五行拳。

しかし“基本的な事のみ”を学ぶという事ではありません。

五行拳では力の出し方、戦い方、仕掛け方を学べます。

打・関節・投げ・蹴りなどが同じ動作で行なえる事、などもこの時点で教えて貰えるでしょう。

“最も重要”との意味で、“基本”と思って良いのですね。

それだけに、五行拳はどの形意拳系統でも最初に学ぶ筈です。

五行拳以降、そこから先の学ぶ順序は先生によっても違うでしょうから、以下はあくまでも私の教える順序です。

 

五行拳がある程度出来る様になったら、

(因みに五行拳は打ち方が一つじゃないですよ)五行連環拳を学びましょう。

これはバラバラで学んだ五種類の技(つまり五行拳)を組み合わせて、套路(型)にした物です。

先に学んだ、五行拳の内容とあいまって、この型を“深く解説を受けて学ぶ”と目が開く筈です。

仕掛け、連続、変化・・・実用のコツが詰まっています。

 

五行連環拳が満足行く出来になったら(笑)、連環拳の対錬を学びましょう。

対錬とは二人組で練習する型で、互いに技の応酬をして間合いや角度、タイミングなどを身に付けていく練習です。

これを学ぶと、実際のやり取りを学べます。

対錬型の順序を学んだだけでは“?”でしょうが、詳しく解説をされて深い所まで教えて貰えば、すげえ!と感動する内容です。

この辺まで来るともうアナタは、形意拳の内容や深さに虜の筈です(笑)。

 

ここまで来たら12形拳を学んでみましょうか。

動きや意識を動物に仮託した、12種類の技を学びます。

形意拳では成立が古いのは五行拳か?12形拳か?

との意見もありますが、私は12形拳の方が古い成立なんじゃないかと思っています。

理由ですか?

そりゃ何となく、ですので違ってるかも知れません(笑)。

 

この次には雑式錘という、12形拳を組み合わせて一つの套路にした物をありますが、
12種類全てが入っている訳ではなく、抜けている技もあります。だからやんなくても良いんじゃないかな(笑)。

 

次は雑式錘を元にした対錬、安身砲を学びます。

 

そこから先も数種類の套路があります。

八勢、12洪錘、八字功、などがあります。

 

武器術も棍、刀、槍、剣などが用意されており、これら武器も、先ずは各五行から学んで連環套路にするという手順を追って学びます。

やはり武器術はやったほうがいいですね。

武器術をやると、素手と相まって理解が深まりますから。間違いなく。

 

さて、ここまでずらずら列記しましたが、何を言いたいのか?といいますと、それは五行拳、連環拳、連環拳対錬まで学べば

(欲を言えば12形拳もやれば)形意拳は実は充分ではないか、ということです。

ここまでの内容を、“深くさえ”学ぶ事が出来れば、形意拳はバッチリです。

というのが私の個人的意見です。

 

以上述べた事は“基本を大切にする”という事であり、何事も基本の延長だという解り切った話をしただけなんですね。

『形意拳は五行拳しか、ない』と言われる意味が解って頂けたのではないかと思います。

 

結局の所は、「多くの技を欲せずに少ない技をしっかり身につける」

という言い古された事になっちゃいました(笑)。

 

 

 

 

でも、こんな事言ったらきっと偉い先生には怒られちゃいますね。

ごめんなさい(笑)。

2011,9,2

 

 第百五十九講

≪少ない技を徹底的に練る事 ~古い技~≫

 

前講で、当会に於ける形意拳の練習順序を紹介しました。

あれは以前、MLで掲載したものなのですが、それを読んだ古参のN原君が、

 

五行拳のあとは確かに連環拳をやりました。

飲み会の席で「連環拳はすげ~んだぞ」と師範が実演とともに、

私の顔や腹に拳を打ち込んだのを覚えています。

次の週、「先週のすげーやつを教えてください」といって

教えていただいたのものです。

ですから、正しい修業過程としては、

五行拳が一通りできるようになったら、

飲み会の席で連環拳を打ち込まれ、

しかる後に連環拳を習う、とこうあるべきです(笑)

 

というので大笑いしました。

ええ、当会に於ける修業とはそうあるべきです。←嘘をつけ。

 

 

さてと、ここからが本題。(笑)

型(套路等)に含まれている技が使えないという問題があります。

昔から伝承されて来た技が使えない、という問題です。

これについて、以前にも述べた事がありますが、今回は私の想像も混ぜて(笑)お話してみます。

 

昔の技が使えないというのは、古今の攻防技術の変化による所も大きいとは思いますが、

私が思うに、一つの技に対する錬度の問題もあるような気がしています。

 

きっと、昔は今よりずっと技数は少なかった筈です。

今のように技が増えたのは、平和な時代になってからだとの話を聞いた事もあります。

技数が少なければ、それを徹底的に練習するので上手くなりますし、使えるようになります。

 

又、もしかすると昔の先生は技を殆ど教えなかったのかも知れません。

教えてもらえないから、生徒は何かの切っ掛け、例えば先生が兄弟子に教えた姿だとか、何かの席でちょっとやってみせた技を、必死で練習したのかも知れません。

 

少々実用が難しい技でも、必死で練習して、身についてしまえば、それが得意技になります。

実際に使う時は、相手がどんな動きをしようと自分の得意技を揮えるタイミングを逃さずに使うのです。

それ一本にしぼるのです。

私の師匠はこう言いました。

「この形になったら相手が誰であっても絶対に勝てる、という技を一つ作る事だ」。

 

太極拳もそうですが、古い武術の先生で、実際に使える人を見ていると、数本の技を徹底的に練習したように見えます。

 

「古い武術に含まれている技は使えない」

のではなく、もしかすると現代の私達は、その古い技の身につけ方が間違っているのかも知れません。

 

 

もう一つ。実戦の際の心得として、師匠の言葉を紹介しておきます。

「相手だって必死だ。怪我しないで勝とうだなんて思うな。自分の何処かをくれてやる心算で戦え」。

 

この辺りの意識が、“試合”に慣れてしまっている今の私達とは異なるようです。

 

 

あ、そういやあの「すげ~んだぞ」の時の飲み会の写真もあったなあ・・・可能ならここに貼ってみるか?いつになるか解らないけど(笑)。

2011,9,16

 

第百六十講

≪発勁≫

 

こんな事を言うと意外がられるかも知れませんが、

“発勁用の特別な練習”というのは僕はしていないし、した事がありません。

(より質を良くする為の練習法というのは幾つか有りますが)

形意拳も太極拳も少林拳も、基本功や套路に発勁の練習というのは入っています。

いや、極論すれば「入っている」というよりは、「その為の型」と言ったほうが良いのかも知れませんね。

何故なら、
正しい套路=正しい身体の使い方=発勁
なのですから。

普段習う基本功や套路とは別に秘密の発勁練習があるのだとしたら、

普段やっている套路は、全く不必要なものと思いませんか?(笑)

 

或る中国人武術家が、この様に言っていました。

(勝手に引用しますけど、怒らないでね)

「形意拳は単純な作業。ひたすら打ち続ける。だから簡単なのに、皆が難しく考えるから、難しくなった」。

全く以って良い言葉です。

 

「形意三年打死人」

形意拳は三年やれば人を倒せる、とのこの言葉も単に形意拳の優秀性を謳っているのではなく、

私個人としては、

「3年で人を打ち倒せる様になる位、本気で練習しろ」

という意味に読むべきだと思っています。

 

何でも懸命に取り組む、これだけです。

それだけが必要な事です。

必要な事は既に教えています。

 

門下生へ。

2011,10,6

 

 

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