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6月26日(日)  “指導”日記ではないけれど・・・
拉(ひしぎ)用の柄を探していたらしいK池君が、「仙台のホームセンターで探してみたんですが、適当なのが見つからないんです」という。石巻のホームセンターでは適当な物が結構あるので、同じく購入を頼まれたT沢さんの分と合わせて買って来た。
石巻は未だ工事が多いからだろうか? ツルハシやポンドハンマーの柄が何処にでも売っている(笑)。

ついでに晩酌のツマミを選びに商店に入ると、『枝豆豆腐』というモノが値下がりしていたので購入。先日の地鎮祭で頂戴した良い日本酒を開けて一杯やってみた。枝豆豆腐、なんと涼しげな味! 枝豆と豆腐のハーモニーが悪くない。・・・ま、「枝豆と豆腐、別々に食べれば良いじゃん」と言われたら、それまでなのかも(笑)。

 

 

6月25日(土)  仙台教室・拳法(打撃)基礎クラス
事情で今夜の道場はI藤君に一任した。

オリンピック絡みか(?)、テレビで空手の形を目にする機会も増えたが、あれを見て“自分もこれをやりたい!”と思う当会の生徒は皆無だろう。その位、空手と中国拳法の型とでは内包しているもの(内容)が違うという事だ。

 

ところで全くの余談ではあるが、私は『例え家業をやっていても兄弟(親族)は同じ仕事に就かない方が良い』と思っている。兄弟家族といえど別々の職業に就く方が良い。良い時は良いのだが、悪くなる時(色々な意味で)もあるし、万一仕事が悪くなった時には一家共倒れになる危険がある。
又、独立した子供達など、親族は住居も離れている方が良い。例えば大災害などが起こった時に、親族が同じ町内に住んでいたりすると一族全員が一気に被災して助け合えない危険性がある。
助かる可能性を高くするには別々であるべきだ。
そういう事例を現にこの目にしているから、強くそう感じる。

 

 

6月24日(金)  仙台・套路(型)クラス
夕方から強い雨になった宮城県。
今夜はK池君と高校生I藤君のみ道場に参加。

前半1時間は大和道(Y田先生伝)の武器術を練習。九鬼神流棒術(対刀も)、専作伝心眼流の棒術と剣術(刀)。2人は型は一通り覚えたようなので(内容は兎も角)、次回からは拉や杖、他の剣術なども少しずつ増やして行こう、と決定。とはいえ杖と他の剣術は若い人達に記憶を任せたので(笑)、若い人頼りではある。

後半は套路を練習。I君は正宗太極拳を、K池君は築館心眼流を。
I君には正宗太極拳の動作の意味を(所々)教え、実際にはどの様な力が要るのか、それをゆっくりと練習する意味を学んで貰い、套路の内容を作って行く為の説明。
K君は築館伝の切に入ったところ。

10時に稽古を終了。雨の日の武器術はイヤだねぇ、濡れちゃって(笑)。

 

日本の数箇所に“キリストの墓”ってのがある。近いとこだと青森にもある。で、それが本当に“キリストの墓なのか?”ってのが問題なんだが。
これはあくまで私の想像なんだが、
昔、外国人(しかも宣教師)なんかがその土地に流れ着いて生活を始めちゃったりして、キリスト教の話を村人にするんだけど、村の人たちゃー外国語なんかわかんねえし、その外人(宣教師?)の名がキリストってんだか、さっぱりわかんねえ内にその人が「キリストさん」って事になっちまって、死んでから「こりゃキリストさんの墓さぁ」って事になっちまった、ってオチ。
だから誰も意図的な作り話をしてはいないんだと思うぞ。
きっとそうだ(笑)。

 

 

今週の雑談・『役に立たない稽古?』
中国武術では型稽古が中心である。
この型稽古が、一体何の役に立つのだろう?と戸惑いを感じるという人も多い。
例えば形意拳の五行拳。これをやって、果たして強くなる為の役に立つのか疑問に感じるのだ。

合気道で教わる、合気あげ。
「そもそも実戦でこんなシチュエーションがあるのか?」
と感じる。
だが、これを懸命に稽古し身につける事が、後に展開される様々な技術のバックボーンとなる。

強い打撃力(ハッケイ)も、
また、後に学ぶ戦闘方法をすんなり出来る様になる為にも、実は、一見なんの役に立つのか解らない型が鍵だ。

筋トレ。これをすれば力がつく。
筋力が強ければ、有利であるのは間違いない。
だから多くの人は筋トレをする事に疑問を抱かない。何より、筋トレは“やってる!”との自己満足を与えてくれる。安心材料になる。
が、しかし、本当に筋トレは武術に必要なのか?と疑ってみる事はないだろうか?
そういう意味で、実は筋トレも“役に立たない型稽古”と同列にあるのではないか?と考えてみても損はない。
ただし、ひ弱で努力を嫌う者がその言い訳に「筋力は不要」と言うのは本末転倒である。喋るな(笑)。
(昔の人は筋力も体力も現代の我々とは段違いに強かったんである)

型の稽古を積む事により、必要な事が身に付く。
だが、そこに気付くには才能が必要であり、多くの人は「役に立たないだろ?これ」と稽古をやめる(笑)。
先生が型稽古によって身につけた技を実演してくれたとしても、そこに型稽古で作り上げた基礎がある事を、理解できない。
たとえ丁寧に説明してくれたとしても、理解できない人もいるだろう。
親切な先生に習っても、そうなのだ。秘密主義の先生なら尚更、弟子に理解力が求められる。
素質と才能、そして努力が必要なのは、どの芸事でも同じである。

結局は先生から手渡された物をしっかりやるしかない。これはどんな芸事にも当てはまる。私はそう思っている。

 

 

今週の読書
6月20日 茂木和行著・『木から落ちた神さま~ウィトゲンシュタイン キリスト&釈迦』を読む。
宗教の専門家が書いた本ではないので、かえって一般の読者にも知的な楽しみとして読みやすいのではないだろうか? 私も“色々な切り口があって楽しいなぁ”と思う本。

以下は仏教徒としての個人的意見なので、興味ない人は飛ばして下さい。
キリスト教的神学(この世と神との関係)は科学が進むにつれ問題が出て来た。こう述べると“宗教哲学なんてそんなモンださ”と思われる方も多いとは思うが、実は仏教(東洋思想)の方はそういった科学との矛盾が少ないのである(「亀の上に大地が乗ってる」的な世界観は仏教のものではなく、インドの伝説なので混同されぬ様に)。
では、それは何故か? これは私見だが(だが多分間違ってないぞ)、キリスト教神学は後世の人間(教会関係者)達が聖書記述と折り合いをつける為に“アタマで”ゴチャゴチャ“考えて”作り出したからであり、仏教は悟った人達が“世界とはこういうモノ”だと気付いた内容を“説明”したからだ。
所詮、どんなに“アタマがイイ”と言ったって、人間の考える事などそんなモノだ。全体を掴める訳もない。

 

 

6月18日(土)  仙台教室・拳法(打撃)基礎クラス
N原君と昼食を食べに行って店からビールを奢られてしまった湊の十五浜屋さんにお礼をしに行かなくちゃな・・・と考えていた所に、5人ほど集まったので皆で食事に行く事にした。
行ったら又もメニューに無いビールをご馳走になってしまった上、一緒に行った者が頼んだジュース代まで取られなかった。こりゃまた借りを作ってしまったなぁ。次回はお菓子でも持ってかなくちゃかな(笑)。

 

さて、今夜道場に来たのはI藤君、S木君、T沢父氏、T沢ジュニア君。
①準備運動。
②基本。受け(防禦)、手技(突き等)、足技(蹴り類)。中でも幾つかの技については解説をしながら練習。
③後ろ回し蹴りの打点が狂っている人もいるので、相手を立てて練習。
④攻防練習。
⑤歩法。最も基礎的なステップを4パターン。体重の在り処が不正確な人もいるので注意して下さい。
⑥約束組手。
⑦自由組手(スパーリング)

 

ところで。
入院する様な大きな怪我なら別だが、稽古するのは迷う程度の小さな怪我であれば、道場を休むよりは来て見学していた方が良い。
皆の動きを見ているだけでも学びや気付く所が絶対にある。

 

 

6月17日(金)  仙台教室・套路(型)クラス
今夜の道場はS島さんとマンツーマン。
基本功を行ない、基本功中の或る動作の実用例を簡単に練習。
劈掛掌の基本動作を3種、それらの用法も練習。同じ動作で攻防両方に対処できる事、一つの動作に変化がある事、右にでも左にでも同動作で対処できる事など、中国武術の基本的な考え方を学べる動作である。
推手を数種類練習し、前半部を終了。

後半は套路。老八掌を中心に練習。
最後に雑談をしながら“自分で出来る整理マッサージ”をし、10時過ぎに今夜の稽古は終了。
お疲れ様でした。

 

今月の頭にふと、女性用の護身術として、迎撃するのではなく、身体をかわしながら、逃げながら揮う技術類を教えようと思った。
その名も『いやんいやん護身術』。
我ながら名前のセンスがない。

 

 

今週の雑談・『鍛錬用の稽古』
既にこれまで何度となく述べたし、もう皆さん飽き飽きしている内容だとは思うが再再度。

武術の稽古内容には即戦用と鍛錬用の物とがある。
“こんなの直接(そのままの形では)使えないじゃん”
と思われるような練習は鍛錬用の稽古内容だと考えて良い。
(鍛錬用といっても筋力を鍛える物だけでなく、それを身体に通す事により、重要な事を身につけるのが目的である物が多い)
どんな練習メニューでも、“これを実用する為には?”と工夫するのは素晴らしいが、鍛錬用の練習を
“実用可能な様に改変”してしまうと、その稽古から得られるべきものが失われてしまう。
特に初学者向きの技や稽古方法にはそのような鍛錬用が多い。縷々注意されたし。
使う事、つまり実用しか考えていない(考えられない)人には、この辺りが理解できないかもしれない。
が、自分が理解できないからと、それが無用な物であるとは思わないほうが良い。
即物的に考え過ぎると、鍛錬というと筋トレや走り込みだと思ってしまうが、本当の意味の鍛錬用のメニューには、将来的に習う、より効果的な技が、それ(鍛錬用稽古)が出来ていないと上手く使えなかったりする。
不必要な練習内容が長年残って来る訳がないのだ。
私達なぞより遥かに天才的な人達が“これは必要だ”と思うからこそその、そのまま実戦では使えない稽古内容を残して来たのだから。

これが理解できない人は古い武術ではなく、栄養と結果を出す為に効果的な鍛錬、直裁に使う為だけのテクニックで出来上がっている現代の格闘技を学んだほうが良い。
「こんな使えない事、何の為にやってるんだ?」と疑問に感じて仕方のない人は、古い武術は辞めると時間の無駄が省ける。
教える側の労力も省けるし、一石二鳥である(笑)。

この話も次週に続けます。まぁ、殆ど同内容の話になっちゃいますけども(笑)。

 

 

今週の読書
6月16日 中沢新一・『三万年の死の教え・チベット死者の書の世界』
震災後に古書店で見つけ、“昔読んだ気がするけど、105円ならかぶっても良いか”と購入。汚れてタバコ臭い古本(笑)。
表題の通り、『チベット死者の書』を扱った本。『チベット死者の書』は人の死後、中有に起こる事を扱った内容として興味を持たれるので、ご存知の方も居られるでしょう。
仏教(特に密教)への知識・理解がないと読んでも何を言わんとしているのか理解に苦しむでしょうし、“荒唐無稽な物語”としか思えないんじゃないでしょうか。

6月17日 『ハックルベリー・フィンの冒険(上下)』(岩波文庫版)を読む。
小説は面白いよ、つい一晩で読んでしまった(笑)。上巻終わりの「ジムの娘」には泣いた。
この本、良く言われるように、人種差別の問題をはらんでいて難しい読み方も出来るけれど、本自体は読み物として楽しむのが正しい気がする。

 

 

6月11日(土)  仙台教室・拳法(打撃)基礎クラス
私は事情で少し遅れて道場に入ったが、I藤君とT沢さんが稽古を開始していてくれた。
基本の稽古が終わった時点で、2人の課題点について指導。
外家拳技術、約束組手、スパーリングを行ない、最後に正宗太極拳で呼吸を整え、稽古は10時頃に終了。
外家拳技術で練習している或る技術を少し掘り下げて練習した。
一つ一つをじっくりと練習し、必要に応じて説明や修正に多目の時間を割いた今夜。

 

きっと今の子供は(多くは)恵まれているんだと思う。
働かなくてもある程度お金(自由になるお金=小遣いなど)はあって、生活も裕福。
我々の頃はお金は無いし、親や大人の力が強くて子供に自由はないし、(その上子供の頃って欲しい物って沢山あるじゃない?大人になると欲しい物なんて何にもなくなるけど)
早く大人になって働いて自由(になるお金と生活)が欲しい!との思いが、自立心を持たせたんだと思う。
でも、今の子供は快適なんだもの、ニートにだってなるよね、そりゃ。

 

 

6月10日(金)  仙台教室・套路(型)クラス
当寺院の表側・駐車場も今日でコンクリートを流し終わった。いやはや、数週間の間、信徒さんはじめ来客の方々にはご不自由お掛けしましたが、もう大丈夫です。
僕ら寺の住人も表から入れなかったんだもの、難儀しましたよ(笑)。

 

足首靱帯を損傷したH君、今夜から道場に戻って来た。まだ激しい動きには不安がある、との事で稽古内容によって参加する形になったが、戻って来るのは嬉しい事ですよ。
稽古前半は柔術を練習する今夜、H君の他にはS島さん、高校生I藤君、K池君、M子さんが道場に来た。
柔術の受身、基本の各種、手解き類とその応用、初伝合気と当身の20本、逆取の1本目を復習。

後半は各々中国拳法の套路や対錬を練習し、10時20分過ぎに今夜は終了。
日中は気温が上がりかなり暑くなったが、夜は風が涼しくて良かった。

 

昨日、「延暦寺の僧が殴って鼓膜を破った」とのニュースがあった。暴力事件がこうして表沙汰になるようになっただけでも良い時代じゃないかい(笑)。
この類の話については発言したい事は沢山あるぞ。凄いぞ・・・って、これ以上のことは書けないけどな(笑)。

 

 

今週の雑談・『スパーはスポーツ』?
それが例えどんなに激しい内容でも、スパーや試合の時点で「それはスポーツだ」と言われる。
これは古流の師匠達の言葉だ。確かに、武術の技を知る程に、その意味が解る。
古い武術の、皮を切らせて骨を絶つ技の凄さ、それを揮う精神の凄さ。暗黙の了解(スパーや試合の持つ)の中では揮う事の出来ない技の数々。
それらは「こう来たらこうする・ああなったらこうする」といったテクニックを遥かに越え、競技に馴染んでしまった我々に、“戦うとは”という事に、戸惑いを与える程である。

表演の美しさで知られる八卦掌なぞは、実は正にその"古い武術”が剥き出しになっている。心眼流もそう、むき出しである(少なくとも私が学んだ系統では)。
“武術”を知れば知る程、古い武術の専門家の人達は決して気軽に立ち会わない理由が解るし、たとえ私が全盛期時期でも、彼等“本物”と戦えば、決して五体満足では残っていられない事が解る。
それが骨身に染みて解ってきた頃から、私も、やっと本物の武術家になって来た、という事だろうか(笑)。

だがしかし、スパーを通じて(古い技を)揮うタイミングを学ぶ、といった練習効用も間違いなくある。それは一見、古い武術の動きとは間逆でも。
いや、やっていないと実際にはスパーリングをやり込んでいる人には手もなくやられてしまうものだ。なので自由組手もせず、“オレは強い”なぞと勘違いしないように(笑)。
「スパーはスポーツだ」と言い切る事の出来る一昔前の古流者の稽古量は凄い。彼らとは稽古にかける熱情が、今の我々とは違うのだから。

ところで以前、『指導日記』で述べた「剣道は武道というよりスポーツとして捉えるべきだ」というのは武道・武術として見た場合に限定が多いからであり、競技者つまり剣道をやっている人を蔑視しているのではない。
少なくとも私は、スポーツとその競技の“凄さ”は身体で知ってる心算である。彼等の身体能力と、戦うぞ!との強い意識に、既にしょぼくれたオッサンと化している私が敵う訳がない(笑)。
例えば、ボクシングの人とパンチ限定で勝負したら、私が如何に秘術を尽くしても(笑)敵わないし、近頃では「完全にスポーツと化している」などと揶揄される事のある空手も、彼等の距離で戦ったら手もなくやられてしまうものだ。競技と、そのド真ん中にいる人達の凄さを知らない人ほど、簡単に批判をするものだ(笑)。

 (実はこの『雑談』、何年も前に書いて放ったらかしといた物なので、変な箇所が有るかも。ご勘弁ご勘弁)

 

 

今週の読書
6月10日
宮坂宥洪著・『仏教が救う日本の教育』を読む。題名が余りに大上段に構えているので、んなコトを考えた事もない私は畏れながら読み出した(笑)。
筆者は大変に怒っておられ、とにかく怒って居られるのであります(笑)。怒りの余り思わず(狙って?)筆が滑っている箇所もあります。こんな本を出版して大丈夫なんでしょうか、角川書店。それだけでも読んで面白いですよ。“なるほどなぁ”と考えさせられる箇所も多くあったですし。それに『仏教云々』と題にはありますが、余り関係なく読めますし。
小林よしのりっぽい怒りがお好きな方は、多分、尚更面白いかも(笑)。

 

 

6月4日(土)  仙台教室・拳法(打撃)基礎クラス
高校生I藤君とマンツーマンの稽古。なので動作の確認も兼ねて基礎的な事を練習した。
準備運動をし、防禦、突きを始とした手技、蹴り技などを一つ一つ行ない、標的に当てさせてフォームや威力を確認。正しいフォームを取る事が出来るだけで威力が変わるのを実感して貰った。
この基本の練習に1時間半程費やした。
残り30分は外家拳技術として練習している技術の中から数種類を復習。手順は結構憶えて来ているので、正しい動きが出来る様に意識的に練習。物によっては随分と良くなった。
10時少し前に今夜の稽古を終了した。
今夜習った事を家でしっかり練習して身に付けてくれれば、今後の上達度が変わって来る筈です。頑張って下さい。

 

ところで、先週土曜クラスで話したのですが、スパーリングは実戦とは違います。
ここでいう実戦とは喧嘩の事です。喧嘩は互いに距離を取り合って打撃(技)の応酬をする、といった事はありません。(腕比べみたいなモノは別)
ここを勘違いすると、道場ではあんなに強いのにストリートで負けた、ってな事になるのです。
スパーリング(組手)はあくまでも稽古の一つです。勘違いしないように。
と、経験のないであろう若い人達に教えておきます。
(次回の雑談で似たような話をしてみましょうか)

 

 

6月3日(金)  仙台教室・套路(型)クラス
北海道で行方不明の小学生、何はともあれ無事で良かったよね。

今夜は高校生I藤君、M子さんが稽古に参加。第1週なので対錬に重点を置いた稽古を。
シンプルな対錬、数種類。
攻防型・2種類。2種目の方法は、実はそのまま攻防一体の動作になるのですよ、という点を実演・解説。M子さんには大分喜んで頂いた(笑)。
天の型、サイ脚。
ほんの少し刀の抜き方を練習し、前半を終了。正宗太極拳に一つ質問を受け、9時過ぎにM子さんは早退。
後半はI君と専作伝心眼流を。大分憶えるのも早くなって来たし、前に教えた対錬類も余り忘れなくなり一つ進歩。今夜は専作伝の初伝7本を覚えた。
9時半頃に今夜の稽古は終了。

 

今年になり、被災地域に住んでいた方々の地鎮祭を頼まれる件数がぐんと増えた。時間の掛かっていた集団移転地での依頼も多くなって来た。地鎮祭を依頼する人達は皆さん一様に明るい笑顔なのが印象的である。自分の住まいが建てられる、というのは漸く何かが進んだ気がして、ホッとするに違いない。

 

 

今週の雑談・森のくまさん(替え歌)
震災間もない5月の頃(5月26日(木))の出来事。
近所の小学生達が5~6人で『森のくまさん』の替え歌を歌っていた。
曰く、
「♪ くまさんの 言うことにゃ おじょうさん 付き合って下さい。キモ~~イ!」だそうだ。
聞いてて思わず笑ってしまったけれど、冷静に考えると、
この場合、
「笑うな!くまさんが気の毒だろうがッ!」と叱るべきかと悩んだ。
↑って、ネタなんだから真に受けない様に(笑)。

 

 

今週の読書
6月1日 清水義範著・『おもしろくても理科』
「文系の人は理系の話にアレルギーがある」みたいな所から始まるので、つい読んでしまった。これだけ面白い本が書けたら大したものですよ、ホント。
この本を読んで「文系と理系の違いって若しかして・・・」と考えた点があります。“理系者と文系者の思考方式の違いが解ったかも!”的な。勘違いかも知れないですし(笑)長くなっちゃうんで、そこは触れませんが。

 

そういや漫画だが、歯科の待合室で『ペコロスの母に会いに行く』という漫画を読んだ。私ごとき人生経験の少ない若造にはコメントなんか出来ない内容。危なく歯医者で泣くところだった(笑)。

5月29日(日)  大和流柔術講習会・二日目
昨日とは打って変わり、参加者が3名のみの二日目。朝9時~12時頃までの練習となり、浅山一伝流の体術と専作伝心眼流の剣術についてご指導を受け、大変感銘を受けた。
稽古後、近所のラーメン店で昼食をとり二日間の練習会は終了。Y田先生を仙台駅にお送りし、私も石巻へ。
今回の練習会も真に内容の濃い、楽しい時間となった。

今回の練習会は会場の設定から懇親会場の決定まで、門下のI藤君に全面的な協力を貰った。感謝感謝。

「柔術には興味がないから・・・」と不参加の生徒もいるがY田先生の講習会に出てみれば分かる。何の事はない、それはただの損だと云う事が(笑)。
Y田先生、今回もご指導本当に有難うございました。毎回多くの技を惜し気もなく教えて頂き、本当に有難い事と感謝いたしております。

 

5月28日(土)  大和流柔術講習会・初日
午後1時より、仙台市太白区にある東郡山コミュニティセンターにて大和道の講習会が開催された。講師は埼玉のY田先生。
(午前中は10時から東松島市の造成区域での地鎮祭依頼があったが、稽古開始時間には間に合って良かった)
夕方5時まで、今回は抜刀術をみっちりご指導頂いた。時折、他派の剣術の技術とも比較しながらお教え頂くそれは、かなりの内容を持ったものだった。
毎回の事ではあるがY田先生の技の広さには驚く。知っているのが大和道だけではないのだ。

脳細胞の老化している私は、当然のように(?)数々の技を憶え切る事は出来ないが、その分、当会の生徒達がキッチリと学んでくれるので有難い。

稽古後は近くの店にて懇親会。武術の話で大いに盛り上がり、土曜の夜で満席だった店も気付けば我々のみになっていた(笑)。解散は11時過ぎ(の様だ)。

 

5月27日(金)  仙台・套路(型)クラス
今夜の稽古はY田先生伝の九鬼神流棒術、専作伝棒術・剣術を復習。
後半は心眼流の素振りを。K池君は築館心眼流、高校生I藤君は専作伝心眼流を練習。
近頃金曜クラスの参加者が少なく、今夜も2名だけであったが、その分参加者の希望や進度に沿った練習が出来る。こういう機会を逃さず上達して欲しいもの。
K池君は築館心眼流の21か条を今夜一通り覚えた。中国武術と兼修しているから随分年数は掛かったが、それも楽しみの一つかも知れない。
今夜は10時半近くに稽古を終了。

 

今週の雑談・『余裕のない世の中?』
どれ位前からだろうか。
レジで待たせられると、怒鳴る人を見うける様になった。
コンビニで「混んでんだから隣のレジも開けろ!」と怒鳴ったサラリーマンがいた。
私がコンビニで働く時、店長に
「コンビニは定価販売なのだから、サービスが売りです」
とレジを待たせない事もその一つだと説明された。ま、商売をする側としては、それは基本。

だが。昔はみんな待った。
それでも誰も苛立たなかった。
今はレジでもATMでも、スムーズに抜けて行けないと苛立つ人が増えた気がする。
どうしてこんな事になってしまったのだろう。
日本人はどうして、こんな人達が多くなってしまったのだろう。
それでいて遊園地でなら2時間でも待つんじゃなかろうか(笑)。

とか言いながら、レジやATMで待つと少しイヤな気持ちになる自分がいる。
もう一度、大切な事を思い出さねばならないなぁ・・・と言い聞かせてみる事にしましょう。

 

今週の読書
5月23日 真鍋俊照・『曼荼羅の世界』。
貰った本だが、前も一度読んだ事がある。文章は平易だが内容は読み辛い。「システム工学や現代メカニズムに曼荼羅理論は活きている」は良いけれど、少々具体的説明が不足している気がする。なら最初からそんな事書かなきゃ良いのになぁ・・・と思ってもみたり(笑)。
スッキリしてないので、初心者向けではない本に思えます。もっと解りやすい本をおススメします。

5月25日 竹内均・『驚くべき旧約聖書の真実』。
旧約の物語中の事件、例えば「エデンは今から5~6000年前・メソポタミア南部での出来事がモデルだ」とか、ロマンに溢れる本。楽しいよね、こういう本って(笑)。

5月29日 養老孟司・『死の壁』。
我々坊主には死や生、そしてその意義というものは課題であり、本書に書かれた内容も珍しいものではない。が、我々坊主が同じ事を語るよりも、こういった著名人による発言の方が一般人の耳目にすんなり入りやすかろう。
唯の坊主の話なんて誰も聞きやしない(笑)、有名人のする話だから皆有難がるのである。

 

 

【連絡】
今年一回目の大和流柔術の講習会を行ないます。指導は勿論、埼玉のY田先生です。伝承者の技を体感できる機会です。門下の方は奮って参加下さい。

5月28日(土)午後1時~5時
5月29日(日)午前9時~12時
場所は東郡山コミュニティセンターです。練習会場の詳しい場所は当サイトの『支部の案内』をご覧下さい。

28日(土)の稽古後には会場の近くで懇親会を予定しております。
稽古会、懇親会とも希望者は早目に連絡下さい。

あ、当たり前ですが講習会がある次週・5月28日の土曜クラスは休みになります。その分4月の第5土曜も稽古した、という事です(笑)。
28日も道場は使用できますので、「ど~しても道場で自主練習がしたい!」という方はやって下さい(笑)。

 

5月21日(土)  仙台・拳法(打撃)基礎クラス
今年も藤の花が満開の節ですねぇ。道場へ向かう途中の東松島~利府の山には夜目にも分かる程、咲いていて綺麗です。

今夜はI藤君、T沢(父)氏、T沢息子君、高校生I藤君が稽古に参加。
①準備運動 ②基本・各種 ③攻防練習 ④外家拳テクニック ⑤歩法・基礎 ⑥約束組手 ⑦スパーリング ⑧(学生のみ)手解き
で10時頃に稽古を終了。
皆の動きを見ていると課題点は多い。最初の内は(練習内容の)手順を覚えるだけで一杯かも知れませんが、慣れたら注意される細かい点を意識的に身につけて行く必要があります。注意点と言うのはちゃんと理由があって注意される点なので、それが出来ているかどうかで攻防動作の隙にも、威力の強弱にも直結して来ます。ゆめ、疎かになさらんように(笑)。

 

近年、オートマ車のアクセル・ブレーキの踏み間違いによる暴走事故が増えている(のか?取り上げられる事が多くなっただけなのか?)ようだ。
運転をする人なら分かる様に、マニュアル車に慣れた人がオートマに乗ると踏み間違いを起こしやすい。年寄りなら尚更だろう。昔はオートマ車なんてなく、長年マニュアルで運転して来た年寄りが急にオートマ車に乗れば、事故だって起こすだろう。といってマニュアル車を買いたくても、今時どの車もオートマばかりで最悪である。
私も現在、マニュアル車とオートマ車とを乗り分けているが、オートマ車で踏み間違いを起こす様になったら免許証を返納しなきゃならんなぁ・・・とは考えている(笑)。
ま、長年マニュアルに慣れて来た年寄りは何とかマニュアル車を探して乗るのが無難ですよ、きっとね。

 

5月20日(金)  仙台・套路(型)クラス
今夜のバレーボールは見られなくて残念。水曜のタイとの試合は凄かった。思わず(見てるだけの)私まで涙した(笑)。
因みに今夜の試合も勝ったそうですね。何より!

今夜は人数少なく、T沢(父)氏とS島さんのみ稽古に参加。
①先ずは正しい突きのフォームの確認。正しい形を取れば省エネで強い力が出る。その為には無駄な力みを抜く事も大切。・・・でも男はこの“力を抜く”事が難しいんだ。殆どの人が「力を抜くってのがどういう状態かすら解らない」。身につけるには、もう努力と才能しかないっすよ。私も“力が抜けた状態”が自覚できるまでには何年も掛かりましたから。当時の先生方は詳しい説明もしてくれませんでしたから、套路や基本功を教材にして先生の「もっと力を抜け!」という言葉を真摯に受け止めて練習するしかありませんでしたから。・・・それが逆に良かったのかな?(笑)
②攻防型。相手のパンチに対する防御法を覚える。型になってる。
③太極拳、形意拳、八卦掌、それぞれの特徴を踏まえた方法で、相手の突きや蹴りを防御する。ついでに古い武術の戦闘方法を、幾つかの技を紹介しつつ学んで貰う事に。
④正宗太極拳・楼膝拗歩の用法練習(演武型)を4種。
⑤太極拳対錬。先ずはお二人に套路の順番を覚えて貰う段階。細かい力の使い方等は追って。
⑥套路。今夜は老八掌。
⑦推手。無駄な力を抜くことを理解して貰う程度に。今後の練習に期待します。
等で10時過ぎに今夜の稽古を終了。お疲れ様でした。

 

東京都知事のましゅじょえ、嘘をつくから嘘を重ねなきゃならなくてタイヘンだねぇ(笑)。その上、今日の会見、一体なに?(笑)

 

今週の雑談・先日の『お坊さん便』へのハナシついでに。
坊さんは基本的に“お布施”として金品を授受するので、金額は決まっていないというのが本来一般的である。
しかし・・・決まってはいないが、多くの寺院では(特に葬儀に於いては)「幾ら」と金額を指定するようであり、その額が「大きい」つまり高額であると言われているのだ。
私の寺院でも葬儀だけでなく、地鎮祭やその他の御祓いなどについても金額は決めていない。ま、お祓い等に関しては一般的にこれ位、という金額が地方で決まっているからである。
無論、私の寺だって金額は多く頂ければ助かるし、有難い。頂く額が多ければ壊れた僧衣や仏具を修繕に出す事も出来るし、新しい物を購入する事も出来る(笑)。実際、津波被害を全て回復しようとしたらまだまだ、ン千万も必要である(笑)。

昔(まだ私が子供の頃だ)、近所の一人暮らしのお年寄りが亡くなり、周囲の人達が身辺の整理をしたら3千円しか残らなかった。石巻中の寺院や宗教団体に連絡しても、その金額ではどこも葬儀を受けてくれなかった。
当院の住職がその3千円で葬儀をし、戒名もつけた事があった。
私は、そういう住職の後姿を見て来たので、その意志を尊重したいし、私自身、性格的に同じ考え方である。

当寺院では葬儀の金額を「○○円から」と決めていないのは、そういった事情があるからである。
お金に余裕のある人ならいい、しかし、本当にお金のない人が葬儀をして欲しいと望んだ時に、(例えば「10万円から」とか)最低価格を決めてしまっていては、その人は頼む事さえ出来ない。(とはいえ最低価格が10万円なら、そこは良心的である。家の壁を塗ったってテキトーな仕事をされてン百万である。・・・おっと、これは余談)
なので、依頼された方と相談しながら決める事になるのが実情である。
(実際、葬儀社に払う費用が多過ぎるので、せめて坊さん分は安くしてあげたいと思っても、遺族に「葬儀参加の坊さんの数を多くして貰いたい」と希望されれば、その坊さん達の日当(笑)がありますから、その分高額になるのは已むを得ませんし。・・・執行が私一人で良ければナンボでも安くしてあげられますけども)
ただし、お金持ちなのに「安いなら葬儀をして貰いたい」というタイプの人の依頼は全部、お断りしています。そういった人は、是非、他で高いお金を取られて下さい(笑)。ココロの無い依頼は一切受け付けません。ワタシも46歳になりましたが、まだまだ怒鳴りつけて追い返しますよ。
葬儀というのは我々僧侶にとってもかなりの労力と緊張・集中を伴なうものの一つです。

そんな訳で、私の寺では“依頼されれば全ての葬儀を引き受け”たりはしません。
親しい信徒さん、古い付き合いのある方、長い弟子や友人など、そういった方々の依頼を、私もそのご家族の死を悼みながら執行させて頂いております。たとえ安価だからといって手を抜いたりは一切しません。銭金ではない、心持ちの問題です。・・・なんせ最近のあだ名が「泣き虫坊さん」ですから(笑)。

ま、そーゆうワケで、私に葬儀を頼みたいって人は1度や2度、怒鳴り付けられるのを覚悟してどーぞ。←ホントかい(笑)

 

今週の読書
渡辺・宮坂共著、『沙門空海』を読む。弘法大師・空海も約1200年前の人だから、不明な点も沢山ある。この本の出版は昭和42年(私が生まれる3年前の本)だが、この頃よりは新たに分かった事があるのだろうか?

以下、余談。
うちの住職(父親)が初めて修行に入った青森の密教寺院では、「僧階なんかどうでもいい。この世界、力(祈願力等)が有るかどうかだ。心しろ」と言われたそうだ。
確かにそういう面はある。どんなにエライ坊さんだって拝む力が無いのでは一般人から見れば価値がない。
一昔前は学僧(学問に精通する僧)と修験僧の間で、「修験者は仏典を正確に読んでない」、「何をいってやがる。学僧は拝む力がねえ」といった反目も有ったに聞く。
(今は真っ当な僧は皆、学僧である。最低限の学問と正統の修行を修めて初めて正式の僧となるので学問が基本。祈願力は個人の研鑽。無論私も学僧だ)
ま、そういう住職に鍛えられてきたので、私も子供の頃はずっと“拝むこと随一”でやって来たが、やはり拝みに性根を入れる為にも学は必要である。という事だって、やっぱり学問をしなくっちゃ、解らない。
特に密教は教学が煩瑣で解りにくい。若い頃は読もうと思って挫折した本もある。しかし、今になってそれらの本も読んで理解出来るようになって来たし、更なる勉強が必要だとも思う。
そういった訳で昔出版された本も出来る限り入手して読もうとしてはいるのだが、さて開いてみたら全文漢文で引っくり返ったりもしている(笑)。時間が掛かるんだよな、漢文。
・・・といった具合で小生の学、マダマダである(笑)。

 

 

5月14日(土)  仙台・拳法(打撃)基礎クラス
T沢父、T沢ジュニア君、I藤君、S木君、高校生I藤君が稽古に参加。
今夜は期間の短い者半数、長い者半数だったので、年数やっている者とそうでない者が組んで一つ一つをゆっくりと練習した(特に④と⑥)。
①準備体操
②基本・各種
③防御練習・攻防練習
④外家拳テクニック
⑤歩法(基本のもの)
⑥約束組手
⑦スパーリング
⑧整理体操
で10時過ぎに稽古を終了した。

 

5月13日(金)  仙台・套路(型)クラス
今夜は柔術を中心に稽古。S島さん、K池君、高校生I君、A目さん、M子さんが稽古に参加。
基本技、手解き類、初伝逆取・逆投・合気。S島さんは東京で大和道を稽古していたので、仙台伝との相違を確認する事も出来て楽しい。
後半は套路を練習。今夜は皆さん八卦掌と太極対錬を復習し、10時30分頃に今夜の稽古を終了。

さて。震災後、ご好意でY田先生に柔術を教えて頂かなければ、私の道場で再び柔術を練習する様にはならなかったと思う。そういう意味でも今の当会の大和道や日本武道の師はY田先生であり、Y田先生から教えて頂いた東京版の方式で練習するのが混乱もなく良いと思う(技の掛け方等が多少仙台版と異なるのだ)。
ま、現時点では少々混ざっている気配もある(笑)。
仙台板で覚えた人はそれで、東京版で出来る人はそれで、と自由な感じで稽古しておき、佐藤金兵衛先生晩年の精華はY田先生の講習会で直接学ぶのが良いのではないか?と考えてもみた。
仙台版にも仙台での大和道の歴史がある事だし、器用な者は両方を覚える事も出来るだろうしね。

余談ですが震災以来休止している、我が寺院の毎年5月と10月に開催していた『祈願祭』『供養祭』は住職の一存で今年も休止のようです。なので、今回5月後半の稽古会開催が出来たという訳です。
『お祭り』と銘打ってはいますが、参加する信徒さんにはイベントであっても、我々僧職としては一日3回、数時間単位で拝み、説法をするという一種の『修行』という感覚があります。要するに根底には「僧職はキツイ思いをして皆の幸福を祈るのだ!」との思いが有る様な気配がします。
住職も大病をし、年も取ってその“修行”が考えただけでキツイので、サボりたいのだと思います(苦笑)。全く、いやはや、ですわな。

 

5月12日(木)  日常
門下のN原君が仕事ついでに寺に来、昼は一緒に外食。
震災前、石巻教室として利用していた湊公民館向かいにあった十五浜屋さん(古い生徒は知ってるでしょ)が、去年位に国道沿いに移転・再開していたので、そちらに。震災後、初めて顔を見てお互い少し涙したり。
店のメニューからビールが消えており、「酒は置くのやめたんだっちゃ」と言うので残念がると、わざわざ缶ビールを出してくれて代金も取られず、すっかりご馳走になってしまった(苦笑)。近いうち、人数を連れてビール代のお返しに行かなくっちゃな!(笑)
N原君、ラーメンご馳走様でした。

 

今週の雑談・「歩み続ける事だけに本当の意味がある」
言っちゃ悪いですけど、武術(に限らずあらゆる芸事)には終わりがないですよ。
「ここまでやれば卒業」という終点がないって事です。どこまでも追求できるし(それが面白い所なんだ)、追及に終わりはないのです。
だから、途中でやめる、つまり挫折したって事はあっても、卒業はありえません。
例えば、坊さんが「俺は昔10年も修行したから、もう修行は不要なんだ」って言ったら、どう思います?
「坊主は生涯修行だべ?」と思いませんか?
それと同じなんですよ。もっと言えば仕事や、“生きる”って事自体がそうなんです。
もちろん、「当初の目標が、ある程度喧嘩に強くなる」とか、「身を守ることが少し出来るようになる」という程度なら、その目標に到達したからいいや。という卒業はあるかも知れませんがね。
歩み続けること、追求し続けること、それが芸事をやる意味なのです。それこそが修行なのです。
結果を求めすぎると、結果なんてない事に唖然としますよ、その内ね。
だからこそ、芸事ではない、現代のスポーツでは試合や評価を通じて一応の結果という満足を得られるようにしているのです。私に言わせれば底が浅すぎます。

誰でも年を取ります。身体を動かす芸事は、年と共に厳しくなっていきます。その中でも工夫しつつ取り組む。若い頃の倍の努力と工夫をして(量ではない)、より高みを目指す。
その道を歩み続ける、それこそ意味があるのです。

 

今週の読書
5月10日
河出文庫・南方熊楠コレクションⅠ『南方マンダラ』を読む。南方熊楠が真言宗僧侶の土宜法竜に宛てた書簡を集めた本。書簡集というのはファン以外にはツマラン物も多そうだが(ゴメン)これは面白い。流石クマグス(笑)。

5月13日
小池龍之介・『苦しまない練習』を読む。コダワリが強くて苦悩しがちな人は、解体する役に立つかも知れませんね。

 

 

5月7日(土)  仙台・拳法(打撃)基礎クラス
S木君、I藤君が今夜の稽古に参加した。
①準備体操
②基本・各種
③防御練習
④外家拳技術類
⑤約束組手。相手の突きに対する投げ崩し技を、別の技から入ったり、抵抗された場合の変化など、今夜は一つの技に絞って練習。
⑥スパーリング
⑦整理体操。簡単なマッサージを。
10時過ぎに稽古終了。

防御練習を見ていて、私が習った頃と何故皆の動きが違うのだろう?と感じていた謎が解けた。練習場所が広いから、大きく動き回って距離を取れるからだ。私が習っていた場所は狭かったので、そう動き回って攻防練習が出来なかった。広いんだもんな、「あんまり逃げるな」と言ったって怖がる人は逃げるわな(笑)。そこが(生徒によっては)“イザ!”という瞬間に入れるかどうかの違いにも繋がっている気がする。
う~ん、打撃格闘技的だ(笑)。ま、理由が分かれば指導(取り組ませる)する順序を変えるだけだから良いんだけど。

 

5月6日(金)  仙台・套路(型)クラス
本日道場に来たのは高校生I藤君のみ。
前言通り(?)前半1時間は対錬中心に行なう日とした。準備運動は省略し(時間的都合。しっかり体操したい人は早目に来て自主的にやって下さい)、早速対錬へ。
基礎練習で行なう体当たりの対錬など、誠に基本的な物がビミョーな人もいるので、今夜も先ずはそれら最も基礎的な対錬を2種、確認の為にやってみた。I藤君の足の動きを修正した。
截脚。八卦掌の足技の多い対錬套路(型)。結構練習した筈なのだが覚え切れておらず、記憶が曖昧。なので復習をし、対錬といえど一人でも(相手をイメージして)出来るように指導。
天の型対錬(後期、東京では名称が変わっていたようだ)。これも曖昧なので一から。ここで少々注意(説教)させて貰った。
「1年ほど道場に通うのに基本的な対錬型を覚えていないというのは、何のことはない練習不足である。対錬は2人組で行なう稽古であり、片方がキチンと覚えていないと手順(型)の復習になってしまい、細部や隠されたコツを教えて貰う事が出来ない。練習不足の自分がいつまで経っても教えて貰えないのは自業自得だが、一緒に組む相手には迷惑を掛ける事になる」と。
単・連攻防、対錬型の復習。
以上、9時半頃マンツーマンの稽古を終了。
実を言えば、もう少し対錬を先に進みたかったのだが、今夜は復習ばかりとなってしまい残念。I藤君に限らず、皆も自宅での自主錬(習った事の復習)を期待する。

「歩みの中に一歩一蹴りする」という事は誰でも知っていますが、いざそれを対錬や套路中にやってみなさい、と言われると結構出来ない人が多いものです。型だけやっている人は先ず出来ませんが、土曜クラスに参加している人には容易な事です。金と土クラスでの練習内容は一見断裂している全く別の技術の様に思えるでしょうが、相互補完的に繋がっています。だって、教えている人間が一緒なんですもの(笑)。
なので、より上達を目指す人には金・土両クラスの参加を推奨していますが、実際土曜の稽古内容は幾らかハードなので万人にお勧めできる訳でもありません。ま、興味のある方は套路の世界を飛び出して、一度体験にどうぞ。

 

今週の雑談・『違ってるんです、実は』
 どの仏さん(仏像)に向かっても、「南無阿弥陀仏」と唱えちゃう人も案外多いそうです。
似たような言葉には、「南無妙法蓮華経」というのもありますね。
ま、違っていても手を合わせるだけ大したものです(笑)。

阿弥陀如来を拝むのが、「南無阿弥陀仏」です。これは念仏と言われます。
念仏とは、字の通り、最初は(元は)「阿弥陀仏を念ずる(イメージする)こと」つまり瞑想だったのですが、それがじょじょに仏の名前を唱える事に変化して行ったのです。要するに誰にでも出来る簡略化(易行と言います)された訳で、阿弥陀さんを信仰の中心に据える浄土宗や浄土真宗で良く使われます。
この易行化により庶民の間に浄土系の仏教が爆発的に広まったのです。 一般の間に流行り過ぎて「なんまいだー」と訛って唱えられたりしますね。「なんまいだ~」じゃ元意味が分からないけど、大丈夫なんでしょうか?(笑)

仏ではなく、仏の教えが書いてある経典(お経)の、中でも「妙法蓮華経(法華経)」そのものを有難がって拝む、のが「南無妙法蓮華経」です。
なので、これは念仏(お念仏)ではなく、経の題を唱える、という事で「お題目」というのです。法華経を最高の経典とする日蓮宗系で使います。
「なんみょーほーれんげーきょー」は日蓮さんのオリジナルです。当時流行っていた「なむあみだー」に対抗しようとお題目を作ったのかも知れませんね。

お釈迦さんを拝む時には「南無釈迦牟尼仏」と唱えます。
始祖を釈迦さんとする禅宗系で多く使います。
花祭りはお釈迦さんの降誕祭(お誕生祝い)ですから、「南無釈迦牟尼仏」と唱えるんですね。

余談ですが、我々真言宗は真言を使います。
ええ、あの何を言ってんだか解んない、あの真言です(笑)。
阿弥陀さんを拝む時には「オンアミリタテイゼイカラウン」、
お釈迦さんには「ノウマクサンマンダボダナンバク」と唱えます。
元はインドの言葉ですから、ちゃんと意味はあります。意味はありますが、この音そのものに“力”がある、とされます。・・・え、「そりゃホントか?」って? そりゃー世の中、ちょっと不思議な事ってありますよ(笑)。

これで花祭りでの時は「南無釈迦牟尼仏」と唱えるという事がお解かりでしょうか?
勉強になった?(笑) え?「一般人にゃ、ど~でもいい」? そりゃそうかも知れませんね(笑)。

 

 

 

4月30日(土)  仙台・拳法(打撃)基礎クラス
T沢父氏、T沢ジュニア君のみ道場に来た。私が道場に着いた時には2人とも既に汗びっしょり。しっかり自主錬週している様子。
なので今夜は2人が稽古している形意拳を中心に指導する事にした。
①五行拳の復習と修正。また更なる上達への練習法を伝授。ジュニア君とお父さんに教えている内容は異なる。それは当人の一番必要とされる練習法が異なるからである。
②五行連環拳・套路の修正。
③形意拳対打の復習と、対打をより実用化する為の方法を伝授。
④12形拳・竜形を指導。くたくた(笑)。
⑤一人で出来るマッサージを行ない、9時15分頃に今夜は終了。だいぶ消耗したと思います(笑)。お疲れ様でした。

昼間、C葉さんがわざわざ私の寺まで訪ねて来て下さったとの事。事前に連絡頂ければ予定調整したのですが・・・いやはや、丁度不在にしていて申し訳ありません。

 

そういや44歳の芸人さんが亡くなったそうで。原因となった病気の怖さについて取り上げられていましたけども、考え方だとも思うのですよ。
詳しくは存じませんけども、その芸人さん、亡くなる直前までご自分で好きな物を食事して、普通に生活していて急に亡くなられたんですよね? それは幸せじゃないでしょうか。
一回は死ぬんですし、私も死ぬならそう死にたいと思いますね。・・・ご家族には大変な事とは察しますが。

 

4月29日(金)  仙台・套路クラス
第5金曜は“武器の扱いを学ぶ日”にしています。“武器の扱い”といっても伝統的な武器型の稽古をするのではなく、即戦的なテクニックを中心に練習します。

今夜の稽古に参加したのはK池君、S木君、S島さん(新入会)の3名。かなり少ないが、その分じっくりと練習出来たのでは。
①棒術。老先生伝の心眼棒術(老先生の工夫である)を中心に。
②剣術。ここで言うのは日本の剣、つまり刀。これも老先生伝の物を中心に練習。
③ナイフ術。ナイフの扱いを基礎から。最後にはナイフスパーやナイフ対素手も。
④自分で出来る整理マッサージをし、
10時20分頃に今夜の稽古を終了。参加の皆さん、お疲れ様でした!また来週。

ところで。
昨年入会した人達ももう慣れたでしょうし、全くの初心者がいないので5月から金曜は週代わりの稽古内容にしようと思います。
週代わりといっても2時間のうちの前半ですが、やはらを含む日本武術の稽古もして行きましょう。例えば(あくまで「例えば」なので変わる事がありますよ)、
第一金曜は中国武術の対錬。
第二金曜は柔術の練習。
第三金曜は中国武術の套路や実用練習。
第四金曜は日本武術の武器術。
第五金曜は武器術。
という具合に。
後半は今まで通り、套路や対錬、用法練習や推手など各自のやりたい事を練習しましょう。
どんどん学んで技術を自分の身につけて下さい。

 

4月25日(月)
仙台からK池君が来てくれ、新たなパソコンを設置してくれた。まだちょっと使い慣れないので、この文章を打つにも苦戦しました(笑)。
パソコン設置等の作業料には「現金より武術的な物の方が嬉しい」との事なので、幾つかの技の伝授と形意拳・三才式の重要点を教えました。今までと内容が変わりそうだと喜んでくれました。こういった細部の稽古(修正)はやはり個人指導でないと難しい所があります。道場の団体稽古で一人に時間を割く訳には行きませんから。
昼食は一緒に取り、帰りにお菓子や洋酒といったお土産を持ってって貰いました。夕方に彼の仕事さえ入っていなければ、一緒に飲めたのですが、今回は残念でした。あ、無論、私は昼食時にビール一本のみましたけれど(笑)。
パソコン作業ついでにコードの劣化で使用できなくなっていたオーディオ機器も直して行ってくれ、本当に有難い一日でした。

 

今週の雑談
前回の『雑談』では数名の方々を慌てさせてしまった様でした(笑)。こちらにはそんな心算はなかったのですが。あのネタ自体、作ったのが何年も前ですしね。
さて、今週の雑談は武術のハナシです。前に『ML』にも掲載した内容ですが、良ければ再度どうぞ(笑)。

正宗太極拳は他に双辺太極拳や、九十九勢太極拳とも呼ばれます。
王樹金が固定された名称をつけようとしなかったので様々な呼ばれ方をしている、という説もあります。
一説には正宗太極拳は形意拳の影響が濃く、双辺は八卦の影響が濃いとされますが、さてどうなんでしょう。九十九勢という呼び方は台湾などで一般的です。

「双辺」というのは恐らく、両極を離れた・中道である、との意味でしょう。
さて、「正宗」です。
日本では「せいそう」と読ませていますが、日本語の読みは色々出来るのが難しい所です。

因みに中国で編纂した経典では、経典の内容を序の部分を「序分(序品)」、本論を「正宗分」と言います。この場合、昔から日本での読み方は「しょうしゅう」です。
ですので、「せいそう」ではなく「しょうしゅう太極拳」と読むのが、伝統的には正しいのかも?知れません。
ま、「しょうしゅう」だと「消臭?」とか勘違いされそうですし、何より言いにくいかも知れませんが(笑)。

さて、自分が編纂した太極拳に「正宗」とつけた王樹金の意図は如何?
「オレっちのは序文でも余分でもなく“正宗”さ!」との自負なのか?
「内家三拳併学の“正宗”が太極拳さ!(形意は序文で八卦が流通(実践)/或いは逆)」と言いたかったのか?
さ、皆さんの解釈は如何に?(笑)

 

 

 4月23日(土)  仙台・拳法(打撃)基礎クラス
I藤君、S木君、T沢父さん、T沢息子君が稽古に参加。
稽古開始前時間に形意拳を練習していたので、良くない点を指導した。
又、今夜は皆の動きを見ながら、正しくない箇所を修正する事にした。先ずは準備運動だが、これも案外不正確にやっているもので、修正箇所が少なくない。
基本各種。防禦練習。外家拳技術。これらも可能な限り正しい動きに変えて貰うべく、指導。
歩法。約束組手。約束組手、時間の都合で今夜は3種のみ練習。内1種で護身の場でもそのまま使える事を教えた。こういった説明を全ての技に当てはめて考えて欲しいものである。
スパーリング。各自、その段階段階で目的を明確にしてスパーに取り組んで下さい。
等で10時過ぎに今夜の稽古を終了した。

 

4月22日(金)  仙台・套路(型)クラス
日中、空き時間に新しい眼鏡を作りに行って来た。2万円以下で一本作れるんだもんなぁ・・・眼鏡も安くなったものです。勿論、安物を選ぶから安いってだけですけど(笑)。

今夜の道場にはK池君、S々木さん、高校生I君、見学の方が参加。
見学に来た方は以前、当会と同系の拳法を学んでいたとの事。同系の武術でも師系が違うと結構違うものである(心眼流が良い例です)ので、今夜は違っている所・同じ所を体験して頂く為の練習を中心にした。
準備運動、基本功、対錬類、套路少々、攻防型、整理体操をして10時過ぎに稽古を終了。
お疲れ様でした。
石巻の太極拳教室が無くなってから整理体操をする機会が減ってしまった・・・意識的に行なう機会を作らんとなぁ。

あ、そうそう、K君には拳法の動き(要するに上手くなる様)を身につけるほか、套路や対錬の順序をもう少し覚えて欲しいと切に願います。宜しく!(笑)

 

 

今週の雑談・『月謝と習い事』
先日、聞いた話から。少々説教臭い上に長文なので、嫌な人は読まないが吉です(笑)。

或る道場で、門下生の1人が毎月の月謝を支払わず通っており、「指導料が払えない」と言いながら、実は遊び歩いており、とうとう師範から
「失業中なら仕方ないがそうでなし、月謝を払っている他の生徒に申し訳ない」
とクビ(破門)になったそうです。
あたりまえだよな(笑)。
しかしこの“当たり前”を当たり前と思えない人がいる、というのが、私には不思議でならんのです。
今回の余談は、そんな『月謝と習い事』のオハナシ。

私の道場では、前月中に「翌月は道場に来れない」と言ってくれれば、来られない月の月謝は割引しています(長期休会の場合は又違いますが)。
これは私自身の経験から取り入れた方法です。この方法は(私は)ナカナカ良いと思っていて、教える側、つまり月謝を頂く立場からすると、生徒が一度も稽古に来ていないのに満額の月謝を貰うのは申し訳ない気持ちになるのです(笑)。

私がお世話になった武術のT先生は、月謝制ではなく一回払いだったけれど、最初に(8枚綴りだったかな)チケットを購入しました。
このチケットには期限があって、一ヶ月間有効でした。この方法だと月謝と変わらないのですよね。
月謝よりも間違いなく(割引をする必要も無く)満額を手にする事が出来る方法です。
(この制度の話を他会の人にした際、「ダンススクールみたいなやり方だね」と笑っていました。実際T先生はダンス教室も併設していたので、ダンスのやり方を武術にも導入していたのでしょう。実際、チケットには“○○ダンススクール”と書いてありましたし(笑))

私の書道は中途半端だけれど(笑)、その教室では、事前に言っておけば休む月の月謝は半額でした。
私は数ヶ月間、その教室を休んだ事がありました。でも復帰の時に、休んだ月の分も先生には満額受け取って貰いました。
その時、先生は「再入会した方が安く上がるから、そうしな」と言ってくれましたが、休んだ期間の月謝を丸々受け取って貰いました。
先生がそれ(指導代)で生活している事を知っていたからです。もっと言えば、習う側の立場としては、私生活が理由だろうと、仕事が理由だろうと、教室を休むのは自分の勝手なのだから、決まった月謝を納入するのが当然だ、と思っていたからです。
あ、これは何も自慢話ではありませんよ(笑)。そうするのが当然、と思っていただけです。
その為かは解りませんが、私が書道教室に通えなくなり、退会を申し出た後でもその先生は私を可愛がってくれて、付き合いが続きました。
教室に通わなくなって、もう10年以上になりますが、今でも何か有ると声をかけてくれます。
私が教室を辞める際、先生に「お前はずっと私の弟子だ」と言われたのが嬉しかったものでした。

心眼流の南方教室では、会費が安いものでした。私が通っていた頃は月々たった千円~千五百円でした。
町の文化財に指定されているからという理由で、会場使用料が全く掛からなかったというのも一つの理由でしょうし、南方の先生が毎週は指導に来れなかったり(来ても一時間で帰ったり)するのも理由の一つだったのでしょう。先生不在の稽古がしょっちゅうでしたから。
南方では(元々会費が安いから)休んでも会費の割引はありませんでした。当然ですね。
南方の先生は月謝として金銭を受け取ろうとしないので、先生が経営する店に行った時には酒を持って行くとか、食堂で何か食べるなどしました。
又、一緒にお酒を飲んだ時には(先生は毎回飲み代を3千円しか取らないので)多めに置いて来るようにしました。

築館の老先生は、ご自宅敷地の道場で教えていた昔は、月謝を貰っていたそうです。
が、私が習った頃には礼金を受け取らなかったので、個人的に教わりに行く時には何か一寸したお土産を持参しました。しかしその後、謝礼を置くように変えました。教わりに行った時には毎回3千円をお礼に置いて来るようにしました。稽古はせずに30分ほど話だけの日もありましたが、先生の時間を割いて貰っていますし、時には迷惑な日や体調の悪い日もあるんじゃないか?と思います。

私が何のかんの言って先生方に評価して貰えたのは、その辺をキチンとしていたからだと感じています。
どんなに性質の良い者であっても、他の者(生徒)と同じく御礼をしなければ、いずれは“所詮はこんな奴か”と思われてしまう様な気がしますが、どうでしょうか?
さもしい事を言ってるように聞こえるかも知れませんが、それが現実だと思うのです。
先生も人間ですから、同じように毎回は稽古に来れない者が居たとして(と云うか普通の社会人は毎回は通えない)、A君は来ても来なくとも月謝を払い、B君は払わない、又は月謝を値切るようであれば(笑)、段々と対応の差をつけていく事になるんじゃないかと思うのです。
そりゃー私だって支払いに懐の痛い時は多々あります(笑)。でも、芸を習うというのは、そういう覚悟みたいな物も必要な気がするのです。
私の先生方だって、一生徒だった時には月謝を払って習って来た筈です。

芸事ってそういうものではないでしょうか。
お礼も熱意の表れ方の一つであるような気がしています。

あ、勘違いないように。こんな内容を書くと、皆さんに
「八大武舘の君達も、もっと多く(月謝を)払いなさい」
と言ってるように誤解されるかも知れませんが、それは違いますよ(笑)。
これまで幾つかの習い事をして来た、“生徒”としての視点から僕はこう思っているんだ、という所を述べた迄です。
皆さんの参考になれば。

ついでに述べておくと、ちょっと稽古に来たと思うと無断で何ヵ月も休み、稽古再開したいというので許可すると、休んでいた期間の月謝を当然の様に払わない、という事を繰り返すので、私の方から見切りをつけた人もいます。
勘違いして欲しくないのは、これはお金の問題ではなく、真剣さの問題だと思ったからです。芸事を学ぶに当たっての真剣さが足りないから、そういう事を平気でやれるのです。
私には全く理解できませんね(笑)。

 

今週の読書
4月17日。柳田邦男『死の医学への序章』を読む。私が16歳の時に出版された本で、末期ガンにかかった精神科医の記録である。この精神科医の西川という方は他に本など出版されているらしいから、ご存知の方も居られるのではないだろうか。尤も、私は不勉強にして知らなかったのだが。
読んで「なるほど確かにそうなんだろうな」と感じる所も多々あった。
死については兎も角、医療や医院の内実には素人なので初めて知る内容もあった。
さて、今の日本は“死について”少しは成長したのだろうか。

同日。『ブルースリー格闘術・上級テクニック編』なる本を読む。一通りザラッと読んだ感じだが、なるほど流石である。実際に打ち合いをして来た者だけが書く内容である。

18日。駒田信二著・『中国故事 はなしの話』を読む。本来の意味とは変わってしまっている言葉というのは少なくない。例えば「一挙手一投足」は本来、「ほんの僅かな労力」を指すと言われても、今の世でそんな意味に使っても通じない(笑)。
と言う訳で、読み物・雑学として面白かった本。

 

【連絡】
月曜・火曜と出かけねばなりません。急ぎの用件は携帯に願います。

 

4月16日(土)  仙台・拳法(打撃)基礎クラス
九州の地震、1回目よりその後が大変みたいだ。強い揺れが余りにも多過ぎるもの、これじゃ平気だった所までどんどん崩れてしまう。気の毒だ。

今夜の道場はS木君とマンツーマンになり、套路の洗い直しをする事にした。

中国人は套路を変えてしまう事が良くあって、初期の頃に習った型が、何年か経つと変形してしまっている場合がある。
その時に「大先生と型が違う!私は間違っていたのか。先生の型と同じくしなければ!」なんて焦る必要はないのである。先生が勝手に変わっただけである。
逆に言えば初期の頃に習った型の方が伝統的に正確な動きである可能性も高いのだから。勿論、先生が「直しなさい」と言った時には直す理由があるので、直さなくちゃならないが(笑)。

 

4月15日(金)  仙台・套路(型)クラス
S々木さん、高校生I君、K池君、M子さんが稽古に参加した。
①準備体操、基本功、基礎的な対錬、柔術(手解)をし、
②打撃を練習。このクラスでは打撃に慣れていない人もいるので基礎的な事を。a相手の出鼻を蹴りで仕留める。これでカウンターを取るタイミングに慣れた所で、b手でカウンターを取る、cbから連打で決める、dリズム等に慣れたら同じ攻めを変化させ自分から仕掛けて仕留める・・・といった内容を楽しく。こういう練習をさせて見ると生徒によりクセがあって、そのクセが悪い物で他の動作にも影響が出ている場合、その欠点が教えているこちらにもはっきり見えるので指導の役に立つ(笑)。
③套路。各自、型を練習。
今夜は10時45分頃に稽古終了。

ところで、道場での録画は禁じている先生が多い。録画内容が外部に漏れないとも限らない、との気配りもあるが(それでは重要点は見せられない)、録画する事で“自分の目で見て動作を捉えて記憶する”という人間の重要な機能が低下するからである。
例えば、名人の動きを拝見したとする。それを見て重要点が記憶できない・印象に残らないなら、演武を見ても意味がなくなる。・・・これも訓練である。若い内に録画に頼って良い事は一つもないという事なのだな。

昨晩、熊本で大地震があったと聞いてショックを受ける。
震度7といったら東日本大震災と同じか。地震後に怖いのは津波と大火であるが、それはどちらも無かった様でそれだけが不幸中の幸いか。
その為か救援物資や仮設トイレの搬入が、私の町と比べればだいぶ早かったようだ。
水道、電気、ガスといったライフライン復旧に時間がかかる。これからが長くなる。頑張って乗り切って欲しい、と心より祈る。

 

4月13日(水)  日常のこと
当寺院と道路の境界にもやっとコンクリートで仕切る工事が始まった。震災から5年、ようやくだ。
午前中は女川での地鎮祭。体調が悪くなって依頼、体力が落ちてしまったので海沿い猛風の地鎮祭は強い消耗を感じる(笑)。
が、身体が不調になってからの2年ほど、仏教(密教)的な理解は増した。若い頃から“何故なんだ?”と思っていた事や、難解過ぎてアタマでしか理解できていなかった物(若しくはアタマですら理解・統一出来ていなかったもの)が掴めて来ているのは事実だ。・・・その“掴んだ”(と理解した心算になっている)内容が間違いじゃないかどうか?は又徐々に解けるのだろう。

今朝方、『葬儀に行き、声明を唱え始めたら亡くなった方が動いて生き返ったので、葬儀が中止になった』というトンでもない夢を見た。
・・・夢のハナシなんてーのは本人以外には全くつまらない物だと承知しているが、思わず書いてしまった(笑)。

 

今週の雑談
近年の武道では、“子供の礼儀作法を身につける場”としての道場の生き残りにかけたきらいがあると思う。
だから武道・武術の正しい技や身体の使い方、文化の継承としての道場ではなく、親に代わって子供を躾ける安価な教室といった場所になってしまっているのが、頑固で偏屈なワタシには大変腹立たしい(笑)。
挨拶だの靴を揃えるだの、そんな事は親が教える事である。親がその教育を出来ないってんなら、それは親がダメ親だからだ。そんな下らん事は、道場に求めんで貰いたい。
道場に来る以前の段階で、そんな人として出来て当然の事は身に付けさせておくべきなんである。
確かに武道の試合などを通じて、例え勝っても敗者の気持ちを慮るとか、負けてもそれを更なる努力に繋げるといった事は身に付けられるかも知れないが、それは他のスポーツや将棋でも同じだろう。
・・・しかしそれすら時代遅れかも知れない。今の親の中には、子供の勝利に躍起になって試合場でとんでもない声援をしていたりする現況があるようだから。

勝者がガッツポーズなどをしない、というのが日本の美徳だった筈なのだが。哀しい事だ。

 

 

≪連絡≫
①4月29日(金)は第5週なので武器術の練習をします。
②4月30日(土)は稽古を行ないます。第5土曜は道場を休みにする事が多いのですが、5月(土曜)に練習会を予定していますので、その分の稽古とします。

 

4月9日(土)  仙台・拳法(打撃)基礎クラス
仙台泉辺りの桜も、夜目にも満開。随分気温も上がり、稽古途中で窓を開けたのは今年初めて。

I藤君、T沢父氏、T沢息子君、高校生I藤君が今夜の道場に参加。
高校生I藤君は土曜クラスに体験参加。
T沢息子君が中学生になったので、9時で早退せず最後まで稽古に参加してみる事に。・・・まぁ、小学生でも2時間稽古できているから中学生になれば余裕でしょうね(笑)。
稽古はいつも通りのメニューで、
①準備運動 ②基本各種 ③防禦練習 ④外家拳技術 ⑤歩法 ⑥約束組手 ⑦スパーリング
初参加の3名も最後まで活き活きと動いており、指導している私も楽しい2時間になった。

 

私の知人が一度も病院にかからず乳癌で亡くなった折、検死をした担当した医師が「2年早く病院に来れば助けてやれたのに」と言ったと聞き、とても立腹したものだ。
一体、何様のつもりか。

 

4月8日(金)  仙台・套路(型)クラス
今夜は中学生I藤君改め高校生I藤君のみ稽古に参加。
準備体操と基本功の後、一緒に数種類の套路(正宗太極拳、老八掌、五行拳、少林拳)を通してみると八卦と五行拳に動作の怪しい部分があったので、まずはそこを再練習。
後半は手解き(解擒)数種と初伝逆取り(関節技)を二つ練習。少年に柔術を稽古させると関節を痛める事があるというが、高校生になったから痛めない程度に少しずつ練習を開始。
受身(前後)の基本も練習。
単攻防の対錬を復習し、単・連攻防套路の身体の使い方、体重の位置などしっかり練習した。
後はしっかり練習をして身につけて欲しい。身につけるのは結局は自身の努力。
9時40分頃に親御さんが迎えに来たので、私も45分頃に道場を出た。

 

人間というのは誠に本質(本性)を失って生きている。何が本質かすら解らなくなっている程である。多くの情報や刺激にさらされている人ほど、見失っている。

 

4月6日(水)  日々の余談
「陽気も良いし、昼から石巻に飲みに来ませんか? 石巻の桜はまだですが・・・って、寒いから外では飲まんわい。え?「新年度になったばかりで仕事が忙しい」ですって!? サボって石巻に来る!位のガッツはないんかい」
というメールを午前10時頃に、生徒達に送りつけた。
武術には点穴という急所攻撃法があって、その中には“○時~○時にこの穴所を打つと死ぬ”という何とも物騒な伝がある。勿論、試した事はないので事実かどうかは解らない。
実は飲みに来た者がいたら“それ”を教えようと思ったのだが、予想通り誰も来なかったので、「護身術に興味がある」という昼酒屋のねーちゃんに教えて、穴所攻撃用の点穴針も一本くれてやった。
・・・そのうち死因不明の死体が見つかっても、ボクは知らない(笑)。

 

今週の雑談・『鬱病について』
職業柄、鬱病などの精神的トラブルを抱えた人と接する機会も少なくないのです。
で、その鬱病。
矢張り時期(季節)によって症状が増える印象があります。やはり春先、秋口といった頃は不安定になるようです。又、月の満ち欠けにも多少影響されている気はします。
又、鬱病にも何パターンかありそうに感じます。幼少期からの根深い影響のある人、何かを切っ掛けに成人してから発症する人など・・・。
今回は特に、幼少期の不満(親子間などの不満)があるのではないかな?というケースを中心に、私の感じている事を少しだけ。あくまで私の限られた経験からの話で、当てはまらないケースも多くあるでしょうから、皆さんの意見も伺って勉強したく思います。

鬱病ってのは症状を出す事で自己主張しようとする精神状態かも知れないな、と思っていたりします。・・・となれば当然周囲の人に解って貰わなくちゃ治まらない病気でしょうからね。本人も周囲も大変です。
周囲の人間は(親子であっても夫婦・恋人であっても)あくまで“他人”である以上、絶対に心の細部(ヒダって言うのかね)までは理解できないから、その“自分の感情を解ってもらいたい、汲み取って貰いたい”っていう欲求はナカナカ満たされないのである。当然なのである。でも、その“当然”の事が理解できないのだろうし、許せないのかも知れません。
鬱病の人ってのはきっと、理解されたいって思いが強いんだろうけど、解って貰えないってのが現実ですからね。
だけど、そんな病状の相手を“理解しよう”として努力してくれる相手がいるってだけで、本当は自身を丸ごと受け入れて貰えているんだ、という事が解らなきゃいけないんですがね・・・解れば自分も少しは楽になるだろうに。けれど、自分の精神状態に埋没していて理屈は通じない状態だからか、全くハナシが噛み合わないのが厄介なんである(お互いに)。

病院へ行った時にも、自分の家族や配偶者に叫ぶように「違う!」、「わかってない!!」と医者に向かって叫んでくれれば、医者も家族の大変さや症状の重さが解って、それなりに真剣に取り扱ってくれるのだが、患者は言える相手(聞こうとしてくれる相手)にだけ感情を爆発させるから、厄介なのである。←まぁ、誰にでも言うようになってしまうと、鬱病なんかじゃなく統合失調症かもしれないけども(笑)。
それは痴呆の老人と同じで、検査の時や他人と接する時は(緊張感なのか?)ピントが合って、普通に受け答えしたりするせいで、介護度や痴呆度を低く診断されてしまったりするんだよなぁ。

ま、それはさて置き、鬱などの病状の人って、自分で自分を肯定できないんだ。だから、他人に肯定して貰わなくちゃならない、んだろうな。
私の知人にも「家族だろうが他人だろうが“自分”にゃ関係ない。自分の足で立て」って散々っぱら話し合って来たのだけど、「意味がやっと解った。でも、怖かった」と言われるまでに、10年かかった。因みにその友人は、また発症しました・・・心の病気も、性格的なモノ(思考方法とか)があるから治るまでには長い付き合いになるんだろうね。

自分に自信がある。もっと云えば、自分の存在に自信がある、そう、自分の存在を肯定できている・・・こういう人って、多分、鬱病とかになりにくい。
実は、仏教の修行というのは、自分の足で立つ事に繋がる。自己の存在に自信を持つ。
・・・だけど鬱の人って、こういう自分を変える為の修行(ちょっとした取り組みなんだが)って、やり方を聞いてもやろうとしないんだよねえ・・・何故? ま、そんだけ精一杯ってコトなんでしょうね(笑)。

で、この話はいずれ又、続きます(笑)。

 

今週の読書
4月4日(月)  仏滅で暇なので読書が進んだ(笑)。ルイーゼ・リンザー著・『ダライ・ラマ平和を語る』を読んだ。「キリスト教や西欧文明に心を開いた仏教徒と東洋の英知を深く学んだキリスト教徒の対話」と訳者によるあとがきにある通りの本。
ダライ・ラマとの対談本は良くあるが、筆者がドイツの作家であるからか、何とも感動的な終盤だった。
文中、ダライ・ラマの発言なのかルイーゼ氏の発言なのかはっきりしない箇所もあり、そういう点では少し読み難いかもしれないのだが、宗教・宗派を超える事、平和と宗教といった事に興味を持つ人はぜひ一読を(笑)。

4月6日(水)
フィリップ・ローソン著、『タントラ~インドのエクスタシー礼賛』を読む。カラー図版の多い、綺麗な本。
タントラというのは化け物みたいな神様だとか(笑)一般的に理解しがたい表現がありますが、皆さんも目にした事が有るのではないでしょうか?今時は何でもネットで調べられるらしいので、ここで私がタントラについてゴタゴタ述べる必要はなさそうです(笑)。
タントラ的な物はインド発祥のヒンドゥー教にも仏教にもありますが、仏教は具体的に性的なモノは用いないのが異なる所。

 

4月2日(土)  仙台・拳法(打撃)基礎クラス
昨日と比べても肌寒い宮城県。毎年花見の頃って寒い気がします。とはいえ、暖房をつけて稽古したら汗だくになりますけどね(笑)。

私が道場に着くとT沢さん親子とI藤君がいて、形意五行拳対打を練習中。対打の指導は3人だと少々不便なので、私も混ざる事にした。T沢さん、覚えたでしょうか?
①準備運動 ②基本各種(防禦、手技までは私が指導。蹴りからはI藤君と交代) ③防禦練習
ここまでで大体21時。T沢さんはここで終了。
I藤君とマンツーマンになった後半は、いつもとメニューを変えた稽古を。
①三体式での力の流れについて詳しく
②少林拳(1種)と12形拳(2種)の動作が不正確な套路を再練習
③いつも外家拳テクニックの中に入れてある或る技術を、実際の攻防法にする練習。身に着いたらいつもの戦い方(スパーの)に組み合わせると、かなりの可能性が生まれる技である。が、拳面を使わないので今の拳サポーター着用だとスパーで使うのが憚られる(笑)
④投げに対する練習
をし、最後に12形内の蛇形について質問を受け、22時過ぎに道場を退出した。

 

4月1日(金)  仙台・套路(型)クラス
今朝は女川駅近くで地鎮祭。年が明けてから女川に行ったのは初めてだが、埋め立てで町が随分と変わった。まだまだ変わるのだろう。
ところで、エイプリルフールです。言われなきゃ忘れていますよね、そんなの(笑)。・・・小さい頃はエイプリルフール(当時はまだ「4月バカ」と言ってました)って何か特別な様な気がして“どんなウソをついてみようか”とウキウキしつつ、結局大したウソもつけずに一日が終わるという感じでしたが、今はもうどんな祭日・記念日でも全く感動がありません。老化です、心の。

さて、仙台でも本日、桜の開花発表となりました。春ですねぇ。
道場は20時を過ぎても私一人。あ、そうか、今日から新年度で金曜じゃどの会社も忙しいに決まってるか。仙台まで来ちまったよ、こりゃーうっかり。
ま、折角なので道場で長物を振り回したり、酔拳で転がってみたりし、21時過ぎに道場の掃除を始めて帰るべか、と思っている所へM子さんが到着。まだ帰らなくて良かった(笑)。
10時過ぎまでM子さんと正宗太極拳を練習。套路の怪しい所を何ヶ所かチェックして行けた様子。

武術(流派)に優劣はありません(当人に合う・合わないは有ります)。結局は、練習量と工夫です。「工夫しなきゃ勝てないのか?」と言うヒトも有るかも知れませんが、現代武道の人達でも強い人は工夫していますよ。
極論ですが、その“工夫”を師に学ぶといって良いのです。師を選ぶとは、その“師の工夫”を選択した、と言えるでしょう。
与えられたモノを、ただ漫然とやっているだけではハイレベルになる事は出来ません。

 

今週の雑談
家族葬が増えているそうだ。選択肢が増えるのは良い事である。
震災前年に私の祖父(在家)が亡くなった時は、参加者が数名のそれこそ“家族葬”で送ったが、これはとても良いものだなぁ・・・と感じたのは事実だ。
とても良いものなんだけれども、ただ、家族葬というのは出来ない場合もある筈なのだ。
例えば、生前社会的な地位・立場のあった故人なら、家族葬は難しい面がある。
私みたいなチンピラなら家族葬が可能でも(笑)。社会的な立場のあった人の葬儀を家族のみで行なえば、何処かから文句が出るものだ。
家業等をしていれば葬儀を介して代替わり宣言、という場にもなる。
そういった場合、葬儀は家族・親族のみで行なっても、その後大々的に“お別れ会”みたいな物をした方が良さそうだ。
(早い内に親戚・知人に「家族葬で行なう」と宣言しておく事で、後の人間関係のトラブルを減らす事は出来る可能性はある)

「家族葬は金銭の費用が少ない」というのもどうだろうか?かなり状況による様だ。
確かに、呼ぶ人が少なければ大きな会場は要らないし、食事数も少なくて済むのは良いが、といって今流行の“故人の趣味”とか“特殊な演出”をするとこれまた金銭は掛かる。
そこは葬儀社も上手く儲けようとするから当然である(笑)。その場合、香典が少ない分かえって費用が掛かるケースもあるのは考慮しておく必要がある。

ついでに、『お坊さん便』について。
私は別に悪くないと思う。これも利用者の選択の幅が広がる事である。
だが、一般的な供養などで3万5千円は、東京では知らないが、私の地元では結構な高額である。
これが若しも“葬儀・戒名一切合切で3万5千円”だというのなら、それは間違いなく安い。が、法要(供養)1回でその金額なら決して安くない。
けれど、1回『坊さん便』で依頼してみて、その坊さんを気に入れば、その後は個人的に依頼する様にすれば、坊さんは(少なくても紹介会社の取り分は)値引きしてくれるだろうから、それは依頼人・僧侶共にメリットがあるのではないだろうか? 会社の儲けの事なんかどーでも良いので(笑)。
因みに、私の寺院では『お坊さん便』に登録はしておりません。

 

今週の読書
3月31日。保坂俊司著・『国家と宗教』を読む。キリスト教、イスラム教、仏教、神道などと政治の関連について述べた本。最初は余り期待もせずに読み始めたが、これまで気付かなかった視点内容であり、何とも刺激的な読書だった。2度読んだ(笑)。

4月1日。野田大燈著・『みどりの中の禅道場』を読む。禅寺の生活を簡易に述べた、実に読みやすい本。
恥ずかしながら私はこのお坊さんの事を存じなかった。これだけの活動をしているのは、本当に大したものだ。

 

 

 

3月26日(土)  仙台・春の昇段級審査会
I藤君、K池君、S木君、S々木さん、T沢親子さん等が今回の審査を受けた。
結果は夫々上達していて何より。
審査がこれからの上達に繋がるようにして頂きたいと思う。

毎週決まった道場では全ての套路、対錬、実用法、練習法を復習できる訳ではない。今回の審査会を経て、後輩が先輩の練習会に参加して稽古時間を増やそうとしているのは大変良い事である。

又、初歩の昇級では型や対錬などの決まり切ったモノをキチンとやれるかが問われるが、段にも近付けば通常の稽古で行なっている物とは違う動きも要求されたりする。例えば(あくまで例えばだが)、いつもの稽古では相手の攻撃に対して掛けている技を、「同じ技を自分から仕掛けてみよ」と言われたりする。その時に戸惑うようでは普段の観察や工夫、思考が足りない。第一、初めて要求された動きの様でも、先輩の審査や、通常の稽古時に解説されて見ている筈なのだ。頭に入っていないだけだ。
型通りの事、普段習っている事が出来るのは当たり前。

 

3月25日(金)  仙台・套路(型)クラス
夜遅くには少し冷えた今夜。道場に来たのは中学生I藤君、S々木さん、K池君。皆、道場に来た順に套路の練習を始めたので、そのまま稽古に突入した。今夜は全編、套路のみの練習。
S々木さんは今週、急にレベルが上がった感じだ。基本の動きを練習し始めたのが効いたか。今夜で陳式の套路も一通り順序を覚え終わった。これから中味。
中学生I藤君はこの所、套路を覚えるのが早くなった。又、皆と一緒に動いていても右手と左手を間違わなく(違っても自分で気付いて直せるように)なって来た。身体を動かす回路が繋がって来たのかも知れない(笑)。
K池君は太極拳套路を洗い直している最中。
途中雑談も挿みながら、今夜も楽しく稽古できた感じがする。稽古終了は10時20分頃。

 

今週の雑談
こないだラジオで『男を扱う“さしすせそ”』とゆーのを聞き、大笑いしたので引用。
さ・「さすがぁ」
し・「しっかりしてるねー」
す・「すごーい」
せ・「センスいいねぇ」
そ・「そんけーするぅ」
だそうです。世の女性、多用してみては?(笑)

 

今週の読書
曽野綾子・『失敗という人生はない』を読む。
読めば数日で読み終わるであろう本だが、なかなか含蓄の深い言葉があったりし、時間がかかってしまった(笑)。
この本は著者が過去に書いた多くの本からの一部抜粋を集めた内容でガッカリしたが(笑)、中にはやっぱり“素敵な発想ね”と感心する箇所もありました。キリスト教と仏教では随分違う所があるけれど、それでも共通の所は恐らく、どの人種でも、どんな時代でも人間の共通の真実なのでしょう。
・・・それは兎も角、よっぽど自信がなければ、こういう切り張りの本は出せないですね(笑)。

筆者は(皆さんご存知の通り)キリスト教の人ですが、仏教と違いが有るとはいえども学びになる点は少なくないので、私はキリスト教徒の著作も読むようにしている訳です。
まぁ最近では、神を人的に見て(解釈)いる一神教は幼稚としか思えなくなり、随分と読まなくなっては来ましたが・・・私的には“神”とは言ってみれば人的な意志を持ったものではなく、全ての存在の根っ子にデン!と在るものです。

ところで、話題ついでにキリスト教について。
この本を読んでいても感じたのですが、キリスト教には考えて納得の行かない教えや聖書の既述が多いのですが、その疑念に対し「しかし神は間違わない」という“信仰”を持ち続ける事で、いつか己で“解ったぞ!”と、その疑念に納得し、自分なりの理屈をつける・・・という“跳ぶ”事が必要なんだろうなと私には感じられます。
跳ばなくては、キリスト教は(内容的に)人の救いにはなれない。つまり、そのままでは宗教哲学として不完全であります。その余りにも不完全である所が逆に“それでも信ずる”を通じて、悟りにも似た“救い”を得るという仕掛けなのかも知れない。
まるでキリスト教全体が仏教でいう“禅問答”の役目をしているんじゃないか?と思ったりするんであります(笑)。
ま、こう考える私はどう転んでもキリスト信者にはなれない、って事ですね。・・・その必要も感じませんけども。

あ、繰り返し言ってる様にキリスト教の信徒さんには良い人が多いですよ。我々仏教徒と比べても遥かに。
元々が素直な人格だからこそ、キリスト教の信徒になれるのかも知れません(笑)。

 

3月15日(土)  仙台・拳法(打撃)基礎クラス
稽古開始30分前に道場に着くとI藤君とS々木さんが形意拳の練習中。熱心で良い事である。
20時からクラス開始。
①基本。今夜は突きに時間を割いた。突きの力の使い方に特徴がある。蹴りは対人で相手を立てて練習。
②或る蹴りを当て易くする為の動き。技には作りと掛けがある、というのは毎度の事(笑)。
③外家拳技術
④柔術
⑤スパーリング
⑥I藤君の正宗太極拳を一部チェックし、今夜の稽古を終了。I藤君もK池君も最近質問の内容が細かくなった。指導の立場になった効果だろう。

このクラスで行なっている基本の蹴りについて、練習時の重要点があります。先日MLに書きましたので、参考にして下さい。

 

3月18日(金)  仙台・套路(型)クラス
静岡で26歳の男が女子学生の頭部を棒で殴り、2人に重傷を負わせた事件があったそうだ。それを受けて「防ぎようがない・怖い」といった意見がネットで上がっているらしいが、そんなもん、武術習えば良いじゃない。返り討ちに出来るから(笑)。
何より武術を学べば、携帯見ながら歩くような“世間への油断”なんかもしなくなるだろうし。

今夜はS々木さん、中学生I藤君、K池君が稽古に参加した。ここ最近は金曜クラス参加者が少なくて幾分淋しいが、その分熱心な人達が来ている感じだ。
①準備体操 ②基本功 ③皆で揃って套路(正宗太極拳前半部、老八掌片側ずつ、専作伝心眼流1本目、外家拳類、陳式太極拳前半部)
後半は各自、套路の練習。S々木さんは陳式、K池君は正宗、I藤君は形意拳を主に練習。套路を教えるついでに、陳式の用法などを解説。教わらないと気付く事の出来ない使い方は一同面白かった様子。
その後は用法や鍛錬法など、雑談も交えながら解説し、推手も一くさり。推手ついでに相手の突きを崩す方法や、引きの速いパンチに対する推手を利用した対処法など。
等などで今夜の稽古は10時50分頃に終了。

武術は実用を目指すなら対人練習は必要(つまり練習相手が要るという事)だし、やはり重要なのは面伝口授なので道場に来る(師に直接教わる)事が大切となる。
仕事や家からの距離などの事情で毎週は無理な人でも、たまには先生に見て貰い(動きを直して貰い)、先生の動きを見る事で上達する。
・・・まぁ勿論、完全に趣味でやっている人ならこの限りではなく、独学だって構わないのだろうけれど(笑)。

 

3月17日(木)
知人で手の利く小母さんが、持ち運び用の仏具を入れる金襴の袋を作ってくれた。私が手で持ち歩いてるのを見て気の毒に思ったらしい。本日、受け取って来た。本当に有難い。
その小母さん、今度は私に普段使い用の袈裟を作ってくれている。震災で多くを失ったが、新しい宝物も手に入れた。・・・宝物、とは人間関係である。それ以上の宝というものは、ない。

 

今週の雑談
「40代と20代とのギャップを感じるか?」とのアンケートがあったそうな。
私も若い人と接して違いを感じる事は多々ある。が、若い人といっても幼児~小・中学生などの内は(その子にもよるが)まだ昔の子供とそんなに(精神的に)違っている感じはしない。中・高校生~大学・社会人位から、イマドキの思考・行動が出来上がって来るのかな?と想像したりする。あ、これはあくまで想像ですよ。
因みにウチの道場に来ている小・中学生はマトモですよ。ご安心下さい(笑)。

ま、いつの世でも、若者は「なっちょらん!」と批判されてしまうものだが、敢えて今日はその辺りのお話しをしてみる(笑)。
確かに私から見ても、この数年は「学校は出席日数を計算して休む所」などと若い人が言うのを聞くと、隔世の感を抱くのは事実だ。そういう感覚で大きくなった人が学校を卒業して会社勤めになったら、毎日休みがない・サボるなんて無理、な社会人になっちゃったら、簡単に鬱病になっちゃったりするんだろうな(笑)。
イマドキは、遊びには行けるが仕事には行けないという“新型鬱病”なんてーのも有ると聞いてビックリした。俺等の世代から言わせりゃあ、んなモン唯の甘ったれよなぁ(笑)。甘やかされたツケだとしか思えない。そんな症状にワザワザ病名をつける医者も問題ないかな?あ、「サボリ」とか「未熟」では診療費は取れないけど、病名をつけて病気にしちゃえば金を取れる・・・って裏技ですかな?(笑)

さて。
私は別に平成生まれを差別するつもりは全くないけれど、色々な相談事を聞く機会の多い職業として感じるのは、今の若い人達には嫌な事や辛い事を我慢するのが難しい人が多いのかな…という気はします。
例えば仕事というのはお金を払うのではなくて貰うのですから、嫌な事ややりたくない事もやらなくちゃ仕方ないじゃないですか。だけど、その我慢が利かないっていうのかな…
好きな事ばかりして生きていける訳はないじゃないですか(笑)。
大人っていうのは色々な風(カゼ)を自分が受け止めて、後ろにいる家族や守るべき人達にその風が当たらない様に立てる、って事だと思うのですが、どうでしょうか?

今の子達は世の中が理解あり過ぎて、甘やかされ過ぎて育っている感じを強く受けます。だから、おだてられないと仕事も出来ない有様で、怒鳴られながら叩かれながら、職場で育てられたり、人格を一旦破壊されてする“修行”なんてーのは無理になって来てるんだろうな・・・だとしたら、料理人も、職人も、坊主も、丁稚修行みたいな事から始めて一から身につける、というんではなく、専門学校みたいな所で(それこそお金を払うお客さんとして)大事にされながら身につけるような時代にますますなるのかしらね。
だとしたら、そんなん、如何に文化で伝統があろうと、もう止めちまったほうが良いよな・・・と思うんであります。淋しい事ではありますがね(笑)。

とまぁ、こんな話をしたついでに、その内(気が向けば)『鬱病について』反感覚悟で私見を述べてみます。

 

今週の読書
ひろさちや著・『無関心のすすめ』を読む。
ひろさちや氏、仏教の“こだわらない”が大好きな上に、お年を召してマイペースになり過ぎでしょうか。相変わらずひろさちや節全開です。全開過ぎてちょっと辟易する箇所もありますが、世の中に大勢居られる“クソマジメな方”には一読をオススメします。
クソマジメな方がこの本を読んだらどんな感想を持つか、にワタシは大変興味があります(笑)。

 

3月12日(土)  仙台・拳法(打撃)基礎クラス
本日は県内中学校の卒業式だそうな。晴れて良かったわの。

今夜道場に来たのはT沢親子氏、S々木さん、S木君、I藤君。
①準備運動
②基本各種。これは皆の間を回りながら、修正点があれば直す形で稽古。
③跳躍技。T沢さん達には未だ教えていなかったので、今夜は二起脚、半旋風脚、旋風脚などを練習し、ついでに旋風脚のちょっと変わった使い方を説明し、皆で練習して貰った。
④防禦練習。
⑤外家拳技術。②、③で結構時間を使ったので、今夜は種類を減らして練習。その代わり2対1で左右同様の練習とした。
⑥柔術。大和道・初伝逆取り10本を練習。
⑦スパーリング。いつもより時間を短くし、細かく相手を入れ替えながら行なった。
以上で10時20分過ぎに終了。

岩手に実家のあるS々木さんは休みの日になると昼は3時間半、夜は2時間半かけて仙台道場に通って来る。こういう人がいると、ちょっと距離がある位で通えない、って人には教えなくても良いやな、と思ってしまう(笑)。尤も、距離がある上に仕事も夜半まである様な人は仕方がないんだが(笑)。
そういやS木君も学生時代は片道二時間かけて自転車で通ってたもんなぁ。

 

3月11日(金)  仙台・套路(型)クラス
5年前のあの日も金曜日だった。とても寒い寒い夜で、星だけが綺麗だった。小学校の窓から火の燃える対岸を見ていた。
膝下まで水が引いた翌日午後、船をよじ登り、ガレキをかき分けながら家に行ってみた。本堂も、母屋も、物置まで跡形も無くなっていた。
それでも、生きてしまったからには生きるしかない。それからずっと無我夢中で実感がなかったが、再建まで歯を食いしばって生きて来たな、と自身を振り返れば感じる。
寺院の再建後、去年位から少しずつだがやっと僧衣や仏具、次第(拝み方の本)等を買い直せる様になって来た。ようやっと。

「避難しよう」と言うと、「どうせ邪魔になるから逃げない」と言う年寄りが必ずいる。だが、「逃げる」「逃げない」と押し問答をしている、その数分が勿体ないのだ。無駄な時間なのだ。
まさか年寄りを置いて家族が逃げる訳には行かない。年寄りが「逃げない」などと言ってモタモタしている内に、若い人まで津波に飲まれてしまうのだ。年寄りは、若い人の命を救う為にも、逃げなくてはならんのだ。
(実は避難所の一部の年寄りについては思う所はある。だが、それは取りあえず置いていて、だ。)
それが私が出した結論だ。

5年後の今日は午後2時半から1時間ほど、東日本大震災の犠牲者の供養をした。2時46分に鳴ると言っていたサイレンが鳴らない。“読経の声にかき消されてサイレンが聞こえなかったんだろうか?”と考えていたのだが、供養後に「市役所がサイレンを鳴らし忘れたって詫びの放送があった」と聞いた。そりゃー市役所、余りにも緊張感が足りんだろうが。全く。

さて、震災5年の今夜、道場に来てくれたのは、中学生I藤君、S々木さん、M子さん、K池君。
①準備運動 ②基本功 ③套路(皆で揃って天ノ型、正宗太極拳・前半部、老八掌、五行拳、陳氏太極拳老課路・前半部、単・連攻防、専作伝心眼流1本目)
④対錬類(シンプルな物からジージャオまで) ⑤実戦用法・接触を活かす物3種類(直裁的な物、太極拳の物、八卦掌の物)
⑥套路(各々練習)
今夜は皆さん熱心で11時頃に稽古終了。

 

今週の雑談
インド発祥の宗教(思想)は排他的ではなく、異質なものとの共存が魅力なところだ。
その仏教の影響を受けてか、それとも日本の元来の気質なのか、日本でも宗教の名の下での殺戮はなかったように思える。
天草(キリシタン)の不幸は、宗教戦争ではなく、あくまで政治的なものであった。
対して、キリスト教やイスラム教は、神の名において殺戮が行われた。神の名においての殺戮は、殺す側に正当性を与えるだろう。
昔の日本の武家が、敵対する一族を皆殺しにする時は「禍根を残さぬ為」であって、神の名の下の殺戮ではなかった。
遺恨を残すまじ、という理由での殺戮は、自分がその罪を背負わねばならない。殺した側はずっと苦しみを背負って生きて行かねばならないのだ。
それに対して、“神の名での殺戮”の何と卑怯なことよ。

 

今週の読書
3月12日、杉田キ道著・『やさしい仏教医学』を読んだ。仏典中にある治療等について解説した本。アーユルヴェーダの医療は有名だが、仏教にも結構入っていたとは、ワタクシもまだまだ勉強不足ですな。
本書にも有る様な“死に行く人へのケアの充実”は随分前から問題となっているし、我々坊主にも大変大きな問題なのだが、日本の病院や医学に求めるのはまだまだ先のハナシな気がしてしまう。ターミナルケア、そこまで今の医者や医学の指導に関わる人達は精神的に立派だろうか。無論、我々坊主も、だが。

 

連絡・昇段級審査会
この3月末には久し振りの昇級・昇段審査会を行ないます。記録を見たら前回は平成26年12月でした。それ以後、私も何やらバタバタしていて審査会開催を失念していました。あれから1年以上ですから皆さん夫々上達しているでしょうに、審査も行なわず申し訳ありませんでした。いやはや。

審査会や免状といった物には全く興味が無い、との人もいるかとは思うのですが、正直言ってそれは間違いです。
審査を受ける、テストされる、と思うからこそ人は練習にも真剣さが増し、上達もするのです。即ち、審査会に参加すると云うのは上達へと直結するのです。
(他に上達への直結といえば公式試合や演武会出場、野試合で決着をつける・・・等がありますが、一番最後は余り褒められた事ではないわな)

又、段や級といった免状は一般的に資格と見なされます。
いずれ他人に指導する立場になるにも「無級・無段。だがケンカ10段だ!」よりは、「私は○拳初段、△拳2級・・・」といった資格があった方が説明が簡便だし、教わる側としても納得・安心しやすいものです。
ですので現在指導に当たっている人は無論、将来指導の立場に立とうとの希望を持つ方には強く受験を勧めます。
お金は少し掛かりますが、銭金の問題ではありません。
仕事の事情等で審査日に参加出来ない、という人も、別口で審査して貰えまいか?という位の気概は必要です。

金銭のかかる事なので、以前の私は「あくまで自由意志で希望者のみ」という幾分遠慮した言い方をしていましたが、もう年も年です。これからは私の門下生達に上達して貰わねばなりません。その為にも今後、審査はドンドン受けて貰います。

 

3月5日(土)  仙台・拳法(打撃)基礎クラス
S々木さん、S木君、Y井君が稽古に参加。
①準備運動 ②基本各種 ③攻防練習 ④外家拳技術 ⑤歩法 ⑥約束組手 ⑦スパーリング ⑧整理体操
で10時10分頃に今夜の稽古を終了した。

S々木さんとも話をしましたが、真面目に7~8年やってくれれば、人に教えながら自分も稽古する形の会(愛好会など)を立ち上げる事が可能だと思うので、武術好きな人はそこを目指す方法もアリです(笑)。

所で、S木君は昇級段したければ、以前より注意している所を直さねばなりません。意識して練習すれば然程困難なく修正可能なモノだと思いますが・・・注意点が頭に入りにくければ、別口で箇条書きにしてあげましょうか。

Y井君、関東でも仕事頑張って下さい!

 

3月4日(金)  仙台・套路(型)クラス
ネット注文した中古本の中に、既に持っている密教の本があったので、MLで「誰かにあげるよ~」と言ったらS々木さんが手を上げたので差し上げた。聞けばS々木さんの本家は真宗の寺という。震災後、寺院と縁のある人との出会いが増えたのが嬉しくも不思議(笑)。

S々木さん、K池君、M子さんが今夜の稽古に参加した。
①準備体操と基本功をいつも通り行ない、
②数種類の套路(正宗太極拳前半部、老八掌、陳式太極拳1路前半部、単・連攻防、八極拳、専作伝心眼流)を皆で揃って練習。特に内家拳は細かい所をチェックしながら。
③太極拳対錬(2人で行なう套路)
④正宗太極拳の技の掛け方と、その為の身体(力)の使い方。ついでに他拳法と共通の技も解説し、伝授。
10時過ぎに一度終了したが、その後男性陣が残って復習をし、10時半頃に稽古を終了した。
と、こう箇条書きにしてみると少しだが(具体的な指導内容は公表したくないので)、今夜練習したモノも身につけるには結構な練習が必要だ(笑)。

ところで先日、パソコンについてK池君に相談に乗って貰った。パソコンだのサーバーだのといったモノは素人にはややこしい。「会社に書面で詳細を送って貰って下さい。僕がそれを読んで判断します」という力強い彼の言葉に、「おお!頼りになる男が近くにいてくれて助かる」と安堵したり(笑)。

 

今週の雑談・坊さんは悪口を言われるモンさぁ
私は「坊さんになりたい」という人がいても薦めない。出来るなら他の道を選ぶのを薦めている。
価値の転換が起こり、昔は"偉い立場の人”だった、教職や警察官、政治家や坊さんなんてのは馬鹿にされる存在に成り下がった。
それでも教師や警察官に対しては、一般人は悪口を言いながらも、それが必要不可欠な職業である事を充分承知している。
けれどまぁ、宗教(とその関係者)の必要性というのは、年々、普通の生活を送る人々の中からは無くなって来ているのが事実である。だからどーしたって悪口を言われやすいのである。これは仕方のない事なんである。金銭と長命が全ての価値の世の中では、宗教や哲学は必要とされないのが当然なんである。
坊さんの読経が上手いか下手かなんてーのは、素人に解る訳もないんだが、声が良いとか耳当たりが良いといった理由で、「あの坊さんは経が上手い」ことの「下手だ」ことの、
「お勤めが短い」ことの「長い」だことの、「字が上手い」ことの「字が下手だ」ことの、中には
「外車に乗ってやがる」だことの「オンボロの軽にのってる」だことの、と、
まぁ、坊さんぐらい悪口を言われる職種ってのもないんぢゃないかと思う(笑)。
例え真面目にやっていても悪口を言われるのが、坊さんってもんである。

ただ、そんな坊さんって職種にも確かに良い面がある。
先ずは、修行や勉強により生や死、存在といったものの理由や意味に触れられると言う事。
そして、もっと卑近な所では、葬儀や供養、祈願や相談事といった直接の“仕事”をしていない時間は、余暇として自由に使えるという事。
この余裕のある時間に修行をして、ますます立派な坊さんになる人もいる。又、弟子の育成や社会活動を行なう人もあるし、趣味に使う人もいる。
空いた時間を書画や茶華といった芸事に使い、玄人はだしの腕前になって副業にまでしてしまう人がいる(因みに私は武術を選んだ、という事だ)。
でもま、余暇に水着の女の人の写真を撮影して歩く、なんてー趣味は坊主としては避けた方が懸命な気がしますが(笑)。
趣味も選びませんとね。
あ、因みにですが、「俺は会社に束縛されてて趣味や芸事の追及なんて出来ない。だから坊さんになりたい!」って考える人がいたとしたら、「それは間違いだ」と言っておきます。
そういう人は、たとえどんなに余暇があったとしても、趣味や芸事を掘り下げたりはしません!(笑)
第一そんな人は、坊さんになるまでの修行をクリアできません。ええ、保証しますよ。

 

今週の読書
3月3日、石田慶和・薗田垣編・『宗教学を学ぶ人のために(世界思想社)』を読む。
“宗教”についてのアプローチの仕方はホントーに様々あって、これはそれらの問題等について述べた本なのですが、親切な内容に感じます。“つまんねーかなー”と思って読み始めましたが、どっこいナカナカ面白かったです(笑)。
この出版社の『○○を学ぶ人の為に』シリーズが沢山ある、という事も衝撃(笑)。

 

 

 

2月28日(日)  石巻・個人指導(Y井君)
Y井君の個人指導は一応今日で終了。最後の稽古なので、準備体操を何時もより丁寧に行なった。
基本技としては後ろ回し蹴りを指導。これで基本的な蹴りは一通り教えた事になる。
攻防に慣れる練習を2種類。相手の攻撃と全く同じ攻撃を返す、という練習と、自由一本組手の様な形の練習。これらは半ば遊びみたいな感じで行なえて楽しいものである(笑)。
単攻防(1人型)の復習。
基本の突きの打ち出し方について、武器術とも理論を並行させて解説。
木刀を使い、日本刀の最も基本的な攻防の理屈を教え、練習。同動作を対棒でも練習。

今日の練習はバラエティに富んだので記憶容量を考慮し(笑)、いつもより少し稽古時間を短目にして終了した。Y井君の個人指導は6回程。回数の割りには教えた内容は多いので、転勤先での復習に期待する(笑)。
次週土曜の稽古に一度参加をし、スパーリング等も経験してから宮城を去る予定。

 

2月27日(土)  仙台・拳法(打撃)基礎クラス
道場にはT沢親子氏、I藤君、S々木さんが来た。昨日と比べても幾らか暖かかったので(昨日は雪、今日は雨)動きやすかった。
I藤君に前に出て貰い、①準備運動 ②基本各種。
私は皆の動きを後方から見て気付いた③各自の修正点を指導・練習。今夜は基本動作を正しく覚える為の練習に多く時間を割いた。
④攻防練習
⑤約束組手
⑥スパーリング
で2時間10分程の今夜の稽古は終了した。

昨日の稽古についてK君からメールが入っていた。「形意拳(実戦法)は面白過ぎて夢にまで見た」と。面白いのは何より(笑)。

 

信仰だの宗教だのという物は立派な人には必要ないんである。品行方正で、己の事より他人の事を優先できる人に、そんな物は必要ない。
だらしなく、ロクデナシの私みたいな人間に必要なモノなんである。

 

2月26日(金)  仙台・套路(型)クラス
今夜の道場にはK池君、S々木さん、中学生I藤君、M子さんが参加した。
稽古開始前に基本功や形意拳に対する質問を受けたので、用例等を説明した流れで今夜は形意拳オンリーの2時間にした。
形意拳をまだ練習した事のない人も居るので、先ずは五行拳の套路を練習して貰った。指導員はK池君。
一寸した休憩時間には、形意拳の根本思想である五行から見た技の順番、勝ち方(攻防)などを解説した。←ま、これは何時も言う様に“楽しいお勉強”程度の取り組み方で充分。
後半は五行拳の用法。五種の技の最も基本的な使い方を一通りザラッと洗ってから、ヘキ拳の用法を集中的に練習。当然使い方は一つではないので、細かく指導した心算である。
最後に形意拳の実闘を詳解し、今夜の稽古は10時10分頃に終了。稽古が終わって道場を出たら雪が降っていた。
教えた事をしっかり練習して身につけるかは、各々にかかっている訳だ(笑)。

K池君主催の(2箇所目の)練習会も今週から始まったようだ。他派太極拳の経験者の方に教える、というのも指導・練習内容の違いや動きの違いなどに色々な気付きが有る様だ。くどい様だが「教える事は学ぶ事」である。ある程度のレベルになったら、教える事でワンランク上がるだろう。傲慢でない限りは、だが(笑)。
尚、当会門下生が主催している練習会については、近い内にこのサイトでも一項を設けて紹介します。

 

2月22日(月)  R枝さん送別会
旦那さんの仕事で大阪への転勤が決まったR枝さん。本人の希望で石巻のとあるカフェで送別会を催しました。開催が平日の日中だったので参加者は5名と多くはありませんでしたが、じっくりとお別れの挨拶をする事が出来ました。
石巻に来た女性2名は最初に当寺院をお参りし(←参詣は私が強制したのでは無いですよ!)、その後、場所を移しての乾杯となりました。
会場となったカフェは本来、月曜定休なのですが、事情を話すと快く開けてくれました。店の方々には無理を聞いて頂いたけれど、お陰で良い送別会になりました。

R枝さん、4年間本当に有難うございました。至らぬ指導者でありましたが、よくお付き合い下さいまして感謝しております。いつかまた、機会があればお会いする事を楽しみにしております。本当に御世話になりました。どうぞ、お身体にお気をつけて。

 

2月21日(日)  石巻・個人指導(Y井君)
①体重の移動と身体の回転、という基本中の基本の復習。この動きは最も簡単に力を出せ、様々な動作にも応用できる。この動作を突きや、相手の身体を崩す事などに繋げて練習。単純で無意味な様に思える練習が、実は重要な要素を持っていたりする。のだが、昔の先生はそういった所を説明しないで唯やらせるだけなので、“意味が解らん”と重要な練習(この場合は体動)をしないでしまう場合がある(笑)。やっぱり或る程度、即戦の練習でない物は“その練習の意味”を説明してあげるのが親切だとは思うし、今はその意味で“親切な”先生も増えているだろう。
・・・きっと今の若い人は”意味の解んない練習”なんてやらないと思うんだが、どうだろうか。練習を通して出来る様になってから、一見無意味としか思えなかった練習の意味が解った!なんてのは流行らないんじゃないかな(笑)。
②①とは又別の、相手の身体を崩す練習。この類いの“崩し”の練習は、身につけば応用が広い。不利を有利にも変える事が出来る技術である。
③打撃の防禦練習。攻撃の防禦の仕方を復習。ついでに実際に必要な“コツ”も幾つか説明。コツは守らないと実際の場では危険である(笑)。
以上で50分程の練習。

 

今週の雑談 『人に教える、ということ』
当会のK池君、I藤君が現在、愛好会を立ち上げて武術の指導をしています。これは私にとっても大変、嬉しい事です。又、当人にしても、自分が好きで習って来た物を、今度は人に教える立場になるというのは嬉しい事なのではないかな?と想像しています。
さて、教える立場になって来た弟子達がいるので、今日は老婆心を発揮して一言述べます。参考にせーよ(←オヤ?なんか急に偉そう/笑)。

私が良くお世話になっているカフェの小母さんは実に手の利く人で、料理だけでなく裁縫や小物作りも得意で、押し花の指導免許も持っていたりする。
その小母さんと“学ぶ・教えるという事”について話し合っていると、
「押し花教室で教える前日、大先生の所へ必ずお邪魔して間違いはないか、変な所はないかを確認して貰い、完璧を期して教室に出た」
と仰るのを聞き、いたく感動した。
我々、練習不足の技量で人に教えてはいないだろうか?
勉強不足・理解不足でイイカゲンな事を説明したり、やったりしていないだろうか?
慣れで指導の場に立ってはいないだろうか?
・・・これは何年やっても常に自身に問わなければならない事だ。人にモノを教える事の責任、を私の門下生達にも再認識して頂きたく思う。
襟を正す気分になった会話だった(笑)。

因みに私の場合は、中国武術にしろ心眼流にしろ、毎週師匠に学びに行きながら自分の道場にも立っていたので、それなりに確認しつつ教える事が出来たが、それでも勘違いや思い込みによる間違いをしている危険性は避けられない。なので年に2~3回、大先生をお呼びして合宿・講習会形式の練習会を催し、皆の指導をして頂いたものだった。(←これには費用が掛かり、ポケットマネーも使ったが(笑)、間違いを伝えないという責任には換えられないからね)
又、生徒の質問に対して自分が解らない・はっきりと自信が持てない物に関しては、取りあえず「師匠に聞いて来週答える」と返答をし、思いつきでテキトーな事を言ったりはしなかった(笑)。
・・・そんな私から見れば、中には自信を持ち過ぎて、“オレが不正確な訳がない”と思い込めるタイプの者もいるが、こういう面白過ぎる性格の奴が芸事の伝承には厄介なんじゃないか?と思う。「オレサマ一番!」でやるのであれば、最初から特定流派の指導を名乗らず、オリジナル武道として教えた方が誤解がなく、被害が少ないだろ?

まぁ、結局何が言いたいか?というと、師匠も何時までも元気な訳ではないので、いずれはどうせ完全に独立しなければならなくなるのだから、師匠が元気でいて使える内は師匠を使っておく(表現が悪い?)のが正解なんだと思うのだ(笑)。
教えてくれて、間違いがあれば直してくれる人、自分の背後に居て活動を支えてくれる人、そういう人、つまり先生が健在の内は幸せなんだから。
・・・と、最近身に染みて感じる。私の師匠達も年を取ったし、亡くなったりしてるもんな。

ま、現在練習会を立ち上げて指導している当会の生徒は、何かあればキチンと私に質問してくるので、酷い間違いを教える事は無いと思うので、安心してはいます。

 

2月20日(土)  仙台・拳法(打撃)基礎クラス
久し振りに雨の仙台。今夜はT沢親子さん、S々木さんが稽古に参加。
①準備運動を済ませ、いつもは各種の基本技と、それに続いて防禦練習をするのだが、人数が少ないので一寸メニュー変更し、
②基本練習と防禦練習を混ぜ、対人にて動きのある練習をした。今夜はこの、防禦と技の使い方の練習に多目の時間を割いた。基本技や防禦法を身につけるにも、色々な方法がある事を皆にも学んで欲しい。
③後半は套路練習。
T沢(父)さんは今夜、正宗太極拳の套路を一通り覚え終わった。今後、細かい点を修正する作業に入る。S々木さんは陳式太極拳套路を半分以上進んだ。こちらも荒削り覚えてしまってから、細部を学んで行く事にした。T沢(息子)君はこれまで学んだ形意拳、八卦掌、少林拳などの套路を復習。
等々で道場は10時頃に終了。後片付けや着替えをしながら、S々木さんと中国語について雑談をし、10時10分頃に道場の明かりを消した。

知り合いの老夫婦がしょっちゅう肺炎などで入院を繰り返すようになった。私も色々と心配してみたのだが、どうも同居の孫ちゃんが去年春から保育所に通い始め、風邪をもらって来るようになったのが原因みたいだ(笑)。
なるほど・・・確かに「子どもの風邪は強い」って良く言われるもんなぁ。子供から風邪がうつると体力の無い年寄りは直ぐに肺炎になってしまうのかもだな(笑)。
孫は可愛いだろうけど、肺炎は年寄りの死因の高原因だから笑ってばかりもいられないですねぇ。

 

2月19日(金)  仙台・套路(型)クラス
宮城では平日午後、ドラマ『釣りバカ日誌』の再放送をしているんだけど、これが“んな訳ゃねぇべ”と思いながらも面白くてつい見てしまう。西田敏行が凄くいいんだわ(笑)。

さて、今夜の稽古にはK池君、R枝さん、S々木さん、M子さんが参加した。皆で雑談をしながら軽い準備体操の後、
相手を崩す練習(柔術)から開始。基本通り(基本として定まった練習法)のあと、崩れた相手を他の技に繋いで倒したり、打撃で仕留める方法など“変化”を多く練習。手順が重要なのではなく、本質を掴んでしまえば後はどうにでも出来る、という事を強調。
八卦掌套路に出て来る動きの実用法。これも相手の“崩し”を中心にした物を。
八卦掌の穿を中心にした用法を、初学者は手足の一致が難しいので先ずは1人で練習してから、対人で練習。上手くやればこれだけでも随分使いやすい技法の一つ。今夜の稽古の最後には、この技を先や仕掛けなどに使う方法も練習。
剣道練習者の速い打ち(叩き)と戦う方法。ここにも武術の理が生きる。
途中途中で雑談を挿みながら、今夜は10時20分まで練習。


・・・今夜行なったり紹介した技法は全て“理を掴めば出来る”という事を理解して貰う為の方法だった。実質、今夜が最後の稽古参加となるR枝さんに餞別の心算で。

 

さて、数人からお尋ねがあったので、入会願書について一寸お話しします。
石巻の個人指導や、私の生徒から指導を受けている方の場合、八大武舘に入会願書を提出するか否かは自由に決めてもらっています。
「入会願書を提出しないと何が違うのか?」と言えば、級や段が取得出来ないという事ぐらいです。又、当会(私)の生徒として正式にカウントされない、という事ぐらいです。・・・まぁ、確かに、級や段の取得がなければ何年習っても、年数やレベルに見合った指導は受けられない、との可能性はありますが、その辺りも結局は自由意志です。

 

2月14日(日)  石巻・個人指導(Y井君)
本日、4回目の個人指導。「転勤になる前に仙台の土曜クラスに体験参加してみると良いよ」とアドバイス。
①準備運動(正確に出来る様になる為に細部を注意しながら)
②突き・蹴りの前回まで学んだ物の復習
③ミットを使った正確に蹴りを当てる練習
④新しい蹴り2種類増加
⑤得意技を作る練習。技を当てるタイミングと、効かせる為のフォーム
⑥柔術。手解きの基本、投げ、関節の崩し方の練習
⑦手刀を当てる練習
⑧最もシンプルな運足(ステップワーク)
等で50分程の練習。武術の経験が全く無いと言っていたY井君も、順調に上達している。なかなか頼もしいね(笑)。

 

今週の雑談 『続・型(套路)の実用性は?』
「型(套路)稽古は実用性があるのか?」は、相変わらず疑念をお持ちのむきもあるのではないでしょうか?(私の弟子にはそういう疑念を持つ者は居ないと思いますが)
結論から言えば、「あります」(笑)。でなきゃ何世代も型が残って来ないでしょ。
型稽古の意味するもの、型が教えよう・伝えようとする物、に気付ける人が居るからこそ、型稽古という稽古方法が今日まで残っている訳です。
今回は、そこいら辺のオハナシ。←う~ん、書き出しが軽いなぁ(笑)。

近頃はネット動画で心眼流を沢山見られる様なので、心眼流を例にお話しします。映像が普及してるから細かい解説も不要でしょうし(笑)。

昔、心眼流の老師匠に、ワンツーや回し蹴りの対処法を見せて貰った事が有ります。(或る生徒の質問に答える形での急の実演でしたので、師匠が事前に準備出来ていた訳ではありません)
それら現代格闘技の技は、古流の心眼流にはありません。従って、そのままの対処法は無い訳です。が、その対処法には心眼流の理が完璧に活きていました。
ここで詳しく書きませんが、ワンツーの対応は刀や槍などで連突きが来たのに対する方法と同じで、回し蹴りは刀を薙いで来るに対するのと同じでした。
(実はそれ以外の対処法も、後日ご自宅で見せて貰っています)
それらは全て、そのまま型の中には出て来ません。出ては来ませんが、それは型の練習から身に付く動きであり、対処法です。
老師匠の言葉を引用します。「これは全部型の動きを利用したものだ。型を稽古して身につきさえすれば、これらは自然に出来るんだ」と。

(中間部HP掲載時一部削除)

型というのは、そういうものです。
型が身につきさえすれば、状況によっては型の動きそのままで対応する事もあります。それは試合(競技)の場では、なるほどそのままは表れ難いかも知れません。
しかし、達者の動きの中には間違いなく型で培われた理、という物が活きています。

先人達が作り上げた型。それは、その型を通して後続の我々に伝えたい・身につけて貰いたい事があるのです。
ただし、全くの初心者には確かに実用性のないものでもありますが。

と、いう訳で、型は間違いなく実用の為に有る物なのです。

勿論、「ワンツーやローキックなどの対応は一つ一つ習えば型なんかまどろっこしい物はいらねえべ」と仰る方が居られれば、それはそういう意見も一つの現実であって、そういう方は型のない武道を学ばれればいいのです。
自己の体系に無い技への対処も型の応用で行なえる、と言う事にシビレル人は(笑)型を学べばいいのですね。結局は好みの問題に落ち着きます(笑)。

ボクシングにも打ち方や戦い方などの“型”があるのです。
書道にも手本があるのです。茶道や華道にも型があるのです。
ダンスにも型があるのです。型の無いダンスでは、余程才能のある者で無ければ、一定レベル以上にはなれないでしょう。
流派(型・スタイル)から入って、型を超えるのであります。最後には“ただ打つだけ”になる筈です。

例えるなら、宗教と同じ。ある宗教宗派の決まりごと・方法論から入って、最後には宗教・宗派を超えるのです。
しかし、最初に型を学ばねば、超える事も出来ない、という訳です。
・・・というのが、私の結論なんですよ。

 

2月13日(土)  仙台・拳法(打撃)基礎クラス
今夜は事情で仙台へ行けず、生徒達に稽古をお願いした。I藤君、S木君、T沢親子氏、S々木さん等が道場に出た様である。

I藤君の指導を見ていると、相手のレベルによって言い過ぎるでもなく、言わな過ぎるのでもない実に適当なアドバイスをしているなぁ・・・と感じる。説明好きな者はつい相手のレベルにお構いなく、教え過ぎるし、逆に説明をしない者は殆どしない、という事もあったりする(笑)。
なのでI藤君位になったら自分の生徒をとって、教える事で学びが出て来ると思われる。
武術の腕は私のほうが良いが(当たり前じゃん)教えるとなると、I藤君のほうが私より良い先生かも知れないぞ。もしかすると。

ところで、大阪転勤の決まったR枝さんの送別会を、ご本人の希望で≪2月22日(月)の午後から石巻で≫行ないます。平日の昼間・石巻開催ではありますが、都合のつく方は出来る限り参加して下さい。

 

2月12日(金)  仙台・套路(型)クラス
今夜、稽古の参加者はR枝さんとM子さんの2人だけ。と、いう訳でもう直ぐ仙台を離れるR枝さんの土産になる様な練習を中心に(笑)。
①形意拳(五行拳)の套路。これは手順の復習程度に。
②正宗太極拳套路の留意点。留意点をしっかり守れば、遠方に行っても上達は出来ます。困った事や疑問が湧いたらメールででも質問して下さい。
③攻防型2種。
④推手。通常の推手から反応練習を兼ねた推手など数種類練習。推手や対錬を行ない(相手に抵抗もして貰った上で)、その動きを套路に還元して行きます。中にはキャーキャー悲鳴の上がるものも(笑)。パンチの対処なんて慣れですよ、慣れ。
⑤ついでに化を使った防禦法を練習。
途中いつも通りの雑談も挿みながら、今夜の道場は10時20分に明かりを消しました。

今夜は主に推手系の練習から自由攻防への道筋をつける練習をした。これをR枝さんのお土産に(笑)。
これから当会を離れるR枝さんに役に立つのは、今は細かい動きの修正よりも、私が師からどの様に学んだか・教えられたか、又、私が師の許を離れてからどの様に武術に取り組んだか、といった話だと思うので、今夜はそういった話に多く時間を取った。きっと、いつか役に立つ。

あ、R枝さんバレンタインチョコレート、有難うございます(笑)。

 

2月10日(水)  体験練習
亘理にお住まいの方から問い合わせがあり、本日午後、空いた時間を利用し正宗太極拳と形意拳の体験練習を行なった。わざわざ石巻までお出でになる熱意が凄い。
今回、正宗太極拳や形意拳がどの様な拳法で、どの様な階梯を経て稽古して行くのか等をご説明した。
道場とは時間帯が合わないという事で(私も日中に亘理まで教えに行くのは少し難しいので)今後は門下のK君を指導員として学んで貰う事になった。
K君の拳法はまだ未熟ではあるが、一通り套路(型)は出来るし、既に或る施設で1年程太極拳講師として指導の経験がある。何より人柄が良いので安心して指導を許可している次第。

ところで、亘理の方が相手の力を化す方法を体験され、予想以上に喜んで帰られたのを見て、“最近道場で推手に殆ど時間を割いていないので、12日の金曜クラスで久し振りにやってみなきゃな”と思いました。太極拳専科クラスなら毎週推手にも時間を取れるのですが、他の拳法を練習している人もいるのでナカナカ太極拳のみに時間を使えません。
前に述べた様に、推手というものは“実際に戦う”事を考えれば必須ではありません。が、多くの事が学べる練習方法だし、“太極拳の特徴としての化”を体験して貰い易い(無論、説得力を持たせる為には或る程度上手くなければダメだが)方法です。
上手ければ、推手形式で手を触れた所から相手のバランスを崩すだけで、「妙技だ!」と感動される場合もあります(笑)。
↑指導者の中には素人の力任せの押しをいなしてバランスの崩れた所を推し飛ばし、「これが気の力です」と言っちゃうタイプの人も居ると聞き、「未だにそんなコト言う人がいるの!?」とビックラこいたが、これは技術であって“気”などというモノは直接関係ありません。“技術”だからこそ、ちゃんと練習すれば誰でも出来るようになるのです。練習したって出来ない、魔法みたいな事であれば“武術=戦いの技術”として練習する必要はないと思いませんか?
ともあれ、一寸ウチの生徒達は推手の練習不足が目立ちます。道場でやらないからと云って不必要な技術ではないし(特に太極拳修行者には)、道場でやるとしたって週1回位じゃナカナカ上手くはなりません。以前述べた様に、私は妹など近くに居る人を捉まえて一時期しょっちゅう練習したものです(その後不真面目で腕が落ちましたが)。皆さんも“真面目に”練習して下さい。

 

2月7日(日)  石巻・個人指導(Y井君)
先週の復習と、新たな技とで50分程の練習。
①Y君は少々身体が固い様なので(笑)前回から準備体操として柔軟を入れている。・・・学校体育で習う準備体操・柔軟体操は大雑把で不正確なやり方で覚えてしまったりするので、柔軟体操一つ取っても武術をやるには矢張り正しい方法を学ぶのが欠かせない。
②身体の使い方(動かし方)を学ぶ為の基本中の基本の動作を。重要な練習ほど地味だったりするが、それが身についているかどうかで技の威力や効果が変わってしまう。
③今回からミットを利用して蹴りや手技の当て方をチェック。Y井君、ナカナカのハードパンチャーで良い感じである。
④手刀の実戦用法を幾つか。試合では使いにくい手刀だが、護身やストリートでは実に使いやすく、使い手に学ぶ事さえ出来れば良い武器となる。
⑤前回教えた“正しい突きのフォーム”が出来ているか確認。人間の身体には夫々悪いクセがあり、正しい身体の使い方が出来る様になるには、時間を掛け、手直しして貰いつつ丁寧に身につける必要がある。
⑥最後に柔術。手解き類と、基本の技を数種類練習。打撃専科の者でも、柔術を学ぶと相手の崩し方など応用範囲の広い技術を身に付けられる。これも丁寧に練習していく心算である。

 

今週の雑談 『現代の中国武術』
この世界にどっぷり浸かってン十年。
こんな事を述べればアチコチから反感買うのは必至だけれど(笑)、数ある中国武術の中でも、健康効果を売りにしている太極拳が実は最も運動効果が低いような気がしています。一般的な太極拳は、ゆる過ぎて運動量が少な過ぎます。
太極拳教室に通って健康になる方は沢山居られます。それは事実です。が、太極拳教室で行なわれている、準備体操や基本功の効果ではないでしょうか。
きっとそういう方々はそれまで余りにも運動をしていなかったのです。毎日しっかりラジオ体操をしても、きっと同じ効果が出たのではないでしょうか。

以前、『初心門下生』にも述べた事ですが、太極拳よりは外家拳の套路をゆっくり行なった方が健康効果が高い気がしています。外家拳はどうも・・・と仰る方でしたら、八卦掌か形意拳をオススメしますよ。あれは運動効果が高いです。

このサイトをお読みの方ならきっとご存知のように、現在一般的に行なわれている太極拳は、近代になって中国政府の肝いりで編纂されたものです。
この編纂は外家拳にも及び、それらが現代・表演武術として、高い身体能力を求められる型です。
編纂に当たっては、太極拳やその他拳法の実戦的部分を削ったそうです。強い武術家が頻出して、政府や権力に敵対する事を恐れたとの意見もあります。そのせいか、力の打ち出し方で大切な部分への指導は欠けています。
そんなワケでして、一般的な太極拳だけを練習したって強くなんてなる訳がないのです。それはまるで拳銃を改造し、弾が出なくなった玩具を(師から)渡すのと同じです。

又、太極拳を練習していて膝を痛めるという話も聞きます。これは編纂された太極拳が武術性と共に、歴史の中で培われた自然な・正しい動きまで変えてしまったからです。要するに身体に無理のある姿勢を要求されると言う事です。だから痛めるのです。
・・・え?私が膝や股関節を痛めているのは?ですか?それは若い頃に無茶な組手稽古ばかりしたからです。套路の質のセイではありませんよ(笑)。

 

今週の読書
多忙にかまけて読書が進まず、12日に漸く中村瑞隆・『ほんとうの道~法華経』を読み終えた。
「仏陀といいましても、釈尊ももとは凡夫であったのでして、それが修行をして、悟りをひらいて仏陀になったのです。故に釈尊には、悟る前から仏になるべき素質がそなわっていたのです。しかしそれは、釈尊だけにあったものではなく、われわれすべての凡夫にそなわっているのです。その点を断固として説いたのが法華経です」(あとがき)
とまれ、この本は気楽に読める割に『法華経』の内容もキチンと説明してあって、いい本だと思います。

 

2月6日(土)  仙台教室・拳法(打撃)基礎クラス
今夜の道場にはT沢親子さん、I藤君、S々木さんが参加。私を入れて5名。この位人数がいると自然と道場が活気づいて良いね(笑)。
T沢さんは何時も通り早く来て套路練習をしていたので、数動作進んだ。
20時にクラス開始。既述の様に私の体調が本当じゃないので、自身に聞きながら動かせて貰った。が、道場にいるとそれだけで楽しい(笑)。
①準備運動 ②基本各種(調子を見て途中でI藤君と交代して貰った)
③攻防練習 ④日曜クラスでやっていた実戦練習・3種 ⑤外家拳技術
⑥柔術・初伝合気10本 ⑦スパーリング ⑧整理運動
で10時に稽古を終了。
久々で道場に来たS々木さんの動きも悪くなく、T沢父氏の動きも全体に良くなっていた。感心感心。
途中の雑談も楽しく、今夜も順調な稽古。

 

2月5日(金)  仙台教室・套路(型)クラス
K池君、O澤さん、M子さんが稽古に参加。
水曜にK池君と石巻で飲んだ折、正宗太極拳のロウ膝ヨウ歩の用法を再確認したいとの話だったので、今夜はそれを中心に練習。
今夜参加した3人共、それなりのキャリアを持つ人達なので、用法や変化を集中的に練習した。初心者がこの様に用法の練習をすると混乱してしまいやすく、決して良い結果ばかりは出ない。ある程度の年数を稽古している人達であれば、どう動いても套路の現われと理解出来るから混乱せず、かえって上達の助けともなる。
途中、教えた内容をメモにとって貰ったり、ついでにオススメの本やアニメの話をしたり、大阪転勤の決まったO澤さんに関西の話をしたりして皆で楽しんだ。
稽古時間の半分は雑談だったんぢゃないか?と疑われる今夜の稽古は10時10分頃に終了(笑)。

元・野球屋が覚醒剤で逮捕だの、少し前は、どっかのアイドルグループが解散すると言ったの取り消したの、とワイドショーは兎も角ニュースで迄あんなに時間を割かなくたって良いぢゃないのか?世間の一体どの位の人数が、そんな連中のコトに本当に興味なんか持ってるんだ?そんな事に興味があって大騒ぎしたいのはテレビ屋なんじゃないのかいな?その問題で株価でも大きく動くのすか?(笑)
ま今回、野球屋は何か発言するにしても野球でしか例えられないんだな、って事は解ったけど。ま、「坊主は何を言うにしても仏教でしか語れないんだな」と言われない様にしなくちゃな、と考える機会にはなりました(笑)。

 

今週の雑談
知人の子供が食が細くて太らないという。見れば動きは活発だし、元気一杯である。全く問題ない。
「子供にも夫々個性があるから気にするな、食が細いのも個性だ」と言うのだが、周囲が色々言うのだろうか、矢張り気がかりな様である。
・・・私の親族の長女が、それはもう食が細いなんてものではなく、それだけに体力がなく、ちょっと風邪でもひけば即入院・点滴するような子供だった。
親はどうすれば少しでも食べてくれるだろうか、とそれこそ苦心を重ねたが全く変化は無かった。
子供が小さいうちは保健婦に見て貰わねばならないのだが、その都度「痩せすぎだ」とか「ちゃんと食べさせているのか?母親の工夫が足りない」とか、中には余りにも痩せているので虐待まで疑われて毎回泣きたい思いをしたそうだ。
が、あるとき、経験を積んだ年かさの保健婦さんが、「標準値の中に居るかは関係ない。その成長線のように上がっているか?が大切だ」と言ってくれ、心から救われたそうだ。
自分が子供を産んだこともない、育てた事もない20歳そこそこの若い保健婦が教科書どおりに指示しようったって無理があるに決まっている。現実は教科書通りには行かない。
その子は今も細身だが、小中と名門校の合唱部で朝から晩まで運動部と見まごうハードな練習を重ね、毎年全国大会のメンバーで出場した。
・・・経験も積んでいないのにアタマで学んだだけで人を指示する立場に立ててしまう、ってのが間違ってるんだと思うぞ。

 

1月31日(日)  石巻・個人指導(Y井君)
個人指導の記録は生徒の希望如何で『指導日記』に紹介している。Y井君からは「折角なので」との希望があったので掲載する。中には「恥ずかしいからイイです」と言う生徒もいるので(笑)、結構掲載していなかったりする(笑)。

Y井君の個人指導は今日が2回目。前回教えた事もそれなりに家で練習していた様で、少しずつだが進歩が見える。
本日の稽古では先ず前週の復習をし、手技や足技など数種新しい物を教えた。彼は武道・武術の経験が無かった様なので、蹴り足の作りが幾らか難しい様だったが、ま、こんなのは一寸意識して練習すれば直ぐ身につくので心配は要らない。
正しい突き(現段階ではフォーム)の理解の助けとする為に、正しい形を取れば力を入れなくても相手が押し返して来る力に耐えられる事を知って貰った。
又、柔術も技を一本練習した。柔術の技は1人では練習しにくい上、手順が複雑なので取りあえずは慌てず、毎回一つずつ教えて行こうと考えている。身体がしっかりしていて力も有るので、時間さえ掛ければ将来、ナカナカの腕になる可能性がある。

 

さて、Y井君の個人指導とは関係ないが、時々問い合わせが有るので個人指導について述べてみる。
個人指導では、その人(生徒)のレベルや、その時の練習内容(メニュー)によっても稽古時間が変わるが、大体30~45分位が普通かと思う。それ以上長い時間練習しても新しいモノを覚えるのは限界があるし、かえって混乱する事もある上(笑)、疲労して来ると動作が雑になってしまい、結果悪いクセがつく危険もある。
又、前回までに教えたモノがある程度は身についていなければ、稽古は同じ内容を繰り返すだけになる。教えた事が出来ていない状態で先に進めば、自主練習の負担が増えるだけだからだ。
多人数のクラス(これは現時点では仙台教室のみ)に参加していようと、個人指導であろうと、結局は教わった事を家で反復稽古して身につける他、上達の道はないのである。どんなに先生が名人だろうと(クドい様だが私が名人だと言うのではない)、習っているだけでは上達しない。自身の努力である。
個人指導を希望する方は、その辺りを良く考えてからお申し出頂きたい。
尚、頼まれれば誰にでも個人指導を引き受ける訳ではありません。私もその人の為にワザワザ時間を割く訳ですから、矢張り熱意を持っている人に教えたいですし、非常識な人はお断りしています。

 

1月30日(土)  仙台・拳法(打撃)基礎クラス
今夜の道場は事情で生徒達にお願いする事になった。皆さん、本当に有難う。
さて、私は道場に出なかった為稽古した内容は解らないので、以下雑談をしてスペースを稼ぎます(笑)。

武術(武道)には、標準的というか“どの流派でも共通の基礎というのがあるのではないか?”と思う人もある。
実は私も若い頃にはそう思っていた。が、単純な事一つであっても先生や流派で違いがあり、共通の動きというのは無いのが現実だ。
例えば、拳の握り方一つとっても、親指の位置からして異なる。
私が師事した或る先生は親指を伸ばして拳を握った。だから、その弟子達も(一部)それを真似したが、イザ実際その拳で相手を突くと親指を突き指した。当たり前である。
その先生は拳面で“突く”という技術を使わないのだ。拳頭辺りを使う素早い“当て”を使い、そこから関節や投げに繋ぐスタイルで戦う人なのだ。そういうスタイルの人なら突く為のしっかりした拳の作りは必要ない。その先生は「拳を握ると捉まえるのが遅れる」と言っていた位だ。
この様に流派や得意技で、基本と思われている拳の作りも変わるのだ。あらゆる流派・武道に共通の基礎基本なんてものは無いのである。
たとえ形式は似ていても、中味が異なるものなのだ。

実は一昨年の後半から身体に異変を感じている。当初はハードに動くと息切れする程度だったが、去年位からは胸が痛んで息苦しくなる。年々酷くなり、今は少し力仕事をすると痛みに襲われる。皆の前で何かあると迷惑をかけるので、様子を見ながら負担が掛かり過ぎない様に動いている最中。
無論、心配をかけるだけで、誰かに話した所で治る訳でもないので今の所誰にも黙っている。が、道場の都合上、皆には言っておく事にする。
思えば私がお世話になった先生方も随分、闘病しながら生活している。先生方も年を取ったし、勿論、私も同じ様に年を取っている。自分の持つ技術に肉体がついて来なくなる時期が来る。・・・尤も、諸先生方と違って私の場合は不摂生が原因なのは死ぬほど承知だが。
そんな訳で、もう暫らく自分の身体に聞きながら動くので、私が動かない時は皆さんで稽古宜しく。・・・クチだけは出すので(笑)。

 

1月29日(金)  仙台・套路(型)クラス
夜~明日は雪の予報。
だが前回の寒波で積もった雪も日陰以外からは大分消えた。先週の積雪では久々に長靴を履いて雪上で稽古し、“若い頃は天候無関係に外で稽古していたなぁ”・・・と思い出した。最近は一定以上のレベルになり、昔ほど努力をしなくなっていた様だ。努力しなければ、緩やかにでも実力は落ちる。当然である。注意注意(笑)。

さて、今夜の道場には中学生I藤君が一番乗り。稽古開始迄は間があったので、これまでに教えた套路を一通り一緒に復習してみたら、八卦掌が曖昧。「先生がやって見せろと言った時に上手に出来ていないと先を教えて貰えないんだぞ」と注意をし、じっくり復習して貰った。
悪いが実際、何回も同じ事を教えるのは嫌だし、教えたくないものだ(笑)。
そこへO澤さん到着。「O澤さんは老八掌は覚えてますか?」と声をかけると、太極拳中心に稽古しているO澤さんは「かなり微妙」との返事が。なので私が号令をかけてI君、O澤さんと2人で套路をやって貰ったが、これが又宜しくない。ううむ(笑)。
そこへ続けてK池君参上。同様に「老八掌は大丈夫かい?」と尋ねると「大丈夫です」との返事。なので3人で一緒にやって貰った所、なんともグダグダ。
昔の先生みたいに、「馬鹿もん!今夜は自分等で復習せい!」と怒鳴りつけて帰ってしまうのもタマには有りか?思ったが、“しっかたねーや”ともう一度教える事にした。

取りあえずはK池君を中心に1時間ほど套路を復習して貰い、皆さん幾らか順序は思い出したようなので、残り時間は細部の身体の使い方を指導。・・・これも前に一通り教えた筈なんだが・・・「どうして忘れるんだい?家でちゃんと練習しなさい」と苦言。いつまでも、何度でも同じ事を教えて貰えると思わない方が無難ですよ。
ってな具合で、今夜は10時過ぎまで老八掌を集中的に復習した。
稽古前の予定では、今夜は八卦掌と太極拳の用法復習をしようと考えていたのだが、それ以前の稽古になってしまった。・・・ま、いいか(笑)。

 

1月25日(月)  石巻・個人指導
石巻教室に又1名、個人指導が増えた。仕事の都合で数ヶ月間という短期間の稽古になりそうなので、移動先でも自分で稽古を重ねられる様に基礎的な内容を教える事にした。
先週金曜に一度仙台教室の見学に来た時点では、彼は打撃(突き蹴り)には余り興味はない、との事だったが、打撃は必要である。柔道家や合気道家が何でも有りの大会に出て、手も無くやられてしまうのは、打撃の防禦が出来ないからだ。反感を覚悟で明かしてしまうが、私はどんなに身体が大きくても対打撃技術を持たない柔道家や合気道家を怖いと思った事は一度も無い。やれば大抵、突きや蹴り、肘打ち等で終わってしまうからだ(具体的な方法は秘密)。ただ、相撲有段者の入り方は凄いと感心したものだ。あれは怖い。←いや、あん時は油断しすぎたかな(笑)。

さて、今日から個人指導を開始したY井君には突き蹴りの基本(これを修練し威力の強い打撃を身につける)、突き蹴りへの防禦、一つの必殺技(これを練り込んでイザという時の得意手にして貰う)、柔術の基本などを教えている。無論、上達によってはその先へと進む心算である。

 

雑談
去年、詐欺犯と出会っていた。
2015年6月の末、私の寺のすぐ近くで「車が壊れてしまった」と助けを求めて来た男がいた。
それは困るだろう、と故障車両の修理店を探す為など、協力をした。
その彼は結局、その日の夜近くに車載車が車を回収に来るまで私の寺にいた。
車載車が来るまでの間に色々と話していると、話題の中に少し妙な所もあったが、彼の自宅が登米の私も良く知っている所だったり、仕事の話なども様々した。
結局、壊れた車の代わりに、彼にはバイクを貸したのだが、彼は返しに来る事もなく、そのままになってしまった。

それからひと月ほど経った頃、警察署から電話があった。
曰く、「S・Fはアチコチで寸借詐欺を働いている常習者であり、今回仙台でバイクに乗っている所をナンバーを控えた」
との旨。私が乗っているバイクは震災後、義弟が購入してくれた物で東京ナンバーなので、宮城では目立つ。調べればすぐ、持ち主までたどり着く。
事情聴取や写真による犯人の特定など、私自身、警察に協力するという初めての経験をした。
彼には既に逮捕歴があったようだ。

その後、暫らく経ったある日、東松島市のある場所で、貸したバイクが放置されていると連絡があった。
一ヶ月近く放置されていたのを近所の人達が不審がり、警察に通報したそうだ。
現場に行って見るとそれは確かに私が貸したバイクであり、椅子下の荷物入れには彼が着ていたであろう洋服類や洗剤が、新品も含めて几帳面に畳んで入れてあり、
又、半分ほど残ったバイク用のオイルなども入れてあった。
ガソリンもほぼ満タンになっていた。
彼には、私なりに親切にしてやったつもりなので、彼も(返し方は間違っていたけれど)バイクを返してくれたのだろう、と解釈した。

年が明けて1月半ば、久し振りに警察署から電話があった。
とうとう捕まったのかな?と一瞬考えたのだが、「S・Fが死んでいました」と聞き、本当に驚いた。状況から見て自殺だろうという。
完全に白骨化しており、DNA検をして当人だと解ったらしい。
場所は、バイクが放置されていた直ぐ近くの山林の中という。遺体が発見されたのは12月。
衣服と一緒にバイクに入っていたコンビニのオニギリの包みなどから、死んだのはその頃だろうという。
話を聞いていて涙が出て来た。「何も自殺しなくても良かっただろうに・・・」と言うと、警察の方も、
「ええ、出頭さえしてくれれば・・・」。

私のバイクの荷台にあった彼の洋服類は、本堂の物置に保管していた。それらも「捨ててくれて良い」との事。
一応、遺品である。翌日、遺品も一緒に彼の供養をして処分する事にした。
考えてみれば、整頓された遺品の中にコンビニお握りのゴミ(包み)が入っていた、という事は、彼が自分の亡くなった日付を誰かに知って欲しかったからではないだろうか。
自分が生きた証しとして。

この出来事を今まで黙っていたのは、捜査の妨害にならないように、と私なりに気を使っていたからだ。又、詐欺犯とはいえ、名前を挙げるなどして晒し者にしたくもなかったからである。
だが、その彼も亡くなった。
彼はどこで人生を過ったのだろうか。そう大きくはない犯罪を犯して自殺する男だ、きっと根は悪くない。
それしか方法は無かったのだろうか。残念である。

 

今週の読書
1月26日(火)定方晟著・『憎悪の宗教』を読む。
キリスト教は愛の教えだ、という一般理解に一石を投じる本。大変面白い。(日本人は和洋折衷が得意で、何でも日本感覚的に引き入れて善意で解釈してしまうからか)未だに西洋文化は優れたモノとの勘違いは有ると感じる。聖書は、日本人感覚で読めば“な~んか一寸おかしいぞ”と思う筈で、“聖書だから優れた内容だ”と思うのはアブナイアブナイ(笑)。
「神はサタンじゃないか」という戯曲風一章には思わずニヤリとした。読みやすいから皆さんもどうぞ。

1月28日(木)
『あらすじで読む日本の名著③』を読み終わる。
こういう本って良いかも知れない。事前にあらすじを知る事で、“著名な作だから”と取りあえず読んでみて自分の好みに合わず、ガッカリする・・・といった被害(?)から免れそうだ(笑)。
そりゃー私にだって好みがあって、ボンが暇にあかせて・・・おっと危ない。文学ってのも、中にはオソろしいファンが居るそうだから、迂闊な発言をしてうっかり地雷でも踏んだら大変だ。くわばらくわばら(笑)。

 

1月23日(土)  仙台・拳法(打撃)基礎クラス
夜半から雪予報の今夜は、T沢父氏が「我々だけで稽古しますので先生は来なくて大丈夫ですよ」と言ってくれたので、お言葉に甘える事にした。
生徒さん達が皆しっかりしていて有難い。
・・・という訳で、私は知人の店に飲みに行ったのだが、雪は真夜中から降り始めたので、道場に行っても雪が降り出す前に石巻に戻る事が出来ただろうな、と考えるとT沢さんには申し訳ない気分(笑)。

 

仙台道場の場合ですが(現在、石巻教室は個人指導で各人の目的や上達に合わせた指道をしていますのでクラス選択は不要です)、
端的に強くなりたい、との人なら土曜クラスを薦めますが、“単なる強さに終わらず武術を追及したい”、“人に教えられる様なレベルになりたい”という人には金曜の套路(型)クラスにも参加する事を薦めています。
古い武術は“型”をテキストとして、掘り下げたり、盛り込んだりしつつ、学び、身に付けていくものです。
この方法は時間は掛かりますが、例えば素手の打撃技術(殴り合い)、投げ、各武器の扱い・・・と必要に応じて色々な物を別々に学ぶよりも、型の運用の中から総合的に身に付けられるので、結果的には時間の省略になるという事が往々にしてあります。良く耳にする「流派(武術)の身体になる」というのは、こういう事です。

 

1月22日(金)  仙台・套路(型)クラス
少し冷えた仙台。寒いと矢張り(?)道場に来る生徒が減る。今夜は中学生I藤君、R枝さん、M子さん他で稽古。
今年は暖冬で何となく全体に気温が高かったから、急に寒いような感じがして寒さがコタえるかも知れないね(笑)。

①準備運動 ②基本功
③対錬類。今夜は余り複雑ではない基礎的な物を中心に練習。
④套路。各自套路(型)や対錬を復習。
地味目な動きを中心に行なった今夜の稽古は10時10分頃に終了。

 

今週の雑談
前に一寸述べた『五時八教』について簡単に説明します。あれじゃ余りに不親切だったから(笑)。
仏教には沢山の経典があります。で、それぞれ言っている内容が違っていたりします(同じ“仏教”なので何処かの部分(考え方)をピックアップして発展させているだけなのですが)。
で、その殆どが「如是我聞(私はこんな風に聞いた)」と始まっていて、お釈迦さんが話した(教えた)内容だとされています。
・・・で、昔の人は悩んだワケです。「どれもお釈迦さんの説法した内容なのに、どーしてこんなに違ってるの?」と。そこで中国のチギというエライ学僧さんが「これらは80年生きたお釈迦さんが年代によって変えて説いたに違いない」と考えて、一番最初は華厳経の内容を話したんだけど、ちょっとレベル高過ぎて皆が着いて来られなかったから、先ずは簡単な内容を説いて、時期を見ながら徐々に色々と深い教えを説いて行ったんだな・・・と、『五時八教』という“仮説”を立てたのでした。その仮説が、まるで事実という感じになっちゃった・・・って訳です。
今では、各経典はお釈迦さん一代で説いた物ではなくて、後世になってからグループ(派閥)ごとに“お釈迦さんの真意はこうだったに違いない」といった感じで作り上げられてった・・・と結論付いていて、イマドキ「五時八教」なんて大真面目に言ってる人はいないのです。
しかし、新宗教の一部の信徒さん達は、平成の今の世にあっても『五時八教』説を真実の如く持ち上げて、「○○経は○○経より上位だ。だから○○経を教義の中心に据えている我々は優れてるのよ!」と言っちゃったりするのです。
ちゃーんと勉強する機会を持ちましょう。“勉強”ってのは自分の派閥の祖や先輩の言う事を鵜呑みにする事ではありませんよ。他の物もキチンと学んで検討しなくちゃなりません。でないと“何が正しくて何が正しくないか”が解らないんです(狂信者になってしまいます《笑》。これは仏教系新宗教だけでなく、キリスト教系新宗教も同じ問題を持っています。そして、武術も。

 

今週の読書
松田慎也著・『ダンマパダ~心とはどういうものか』を読む。釈尊(お釈迦さん)が直接話した内容が残っているのではないか、とされる初期仏教の経典(ダンマパダ。日本では法句経と)をベースにした仏教の解説本。
文章が平易で読み易いが、もしかすると少しは仏教をかじった事があるってな人向けかな?と感じました、あたしは。

 

1月16日(土)  仙台・拳法(打撃)基礎クラス
T沢さん親子とI藤君が稽古に参加。先週、体調不良で道場を休んだT沢父氏の体調がまだ完調ではないので、今夜の稽古はグループに分けて行なう事にした。
準備運動は皆で揃って行ない、
T沢ジュニア君はI藤君指導の下で打撃の稽古。各種の基本、防禦練習、外家拳技術、限定付きスパーなど。
T沢父氏には私が正宗太極拳を指導。取り敢えず細部は置いておき、さっさと一通り套路を覚えてしまいましょう(笑)と云う事で、今夜は随分套路を進んだ。
T沢親子は9時半頃まで稽古をし、帰宅。ジュニア君も今夜は楽しそうに今までに無い長時間の稽古に集中した。稽古開始前に形意拳も直しておいた。

残り時間でI藤君に築館心眼流の口伝を解説・実演し、学んで貰った。彼は老先生から直接免状も頂いたので、今後もしっかり稽古に励んで欲しいもの。
又、彼が少年に指導する姿を見て安心した。土曜クラス内容の指導であれば、もう彼に任せれば大丈夫だ。何より指導される後輩が楽しそうで、私が教えるよりもイイかも知れないぞ(笑)。

 

1月15日(金)  仙台・套路(型)クラス
参加人数は少なく、R枝さん、中学生I藤君、K池君の3名のみ。今夜は正宗太極拳を中心に練習する事にし、正宗太極拳の基本功を行なってから套路を。
少人数で、太極拳套路中心の稽古だったので多少気楽に雑談などをしながら楽しく。
稽古開始前は被災地のちょっと大っぴらには言えない話題をし、稽古中には武術映画や、坊さんの一寸不思議な話、私が習っていた先生方の話・・・等々、多数の雑談を交えながら練習。
R枝さんは少しずつ套路の細部を正確に打てる様に稽古、K池君は目線や角度の矯正で随分良くなった。中学生I藤君は若いだけに套路を覚えるのが早い(忘れない様に)。

10時過ぎ位からK池君が築館心眼流の型の練習に入った。彼は築館伝に熱心に取り組んでくれているので、老先生から教わった口伝も幾つか解説・実演。口外禁止。
10時20分頃、稽古を終了。

 

午後に1チャンネルで『ポリスストーリー・レジェンド』という映画を放送したので、何となしに観てみました。いや~ジャッキー・チェンも年を取りましたねぇ。
そういや映画観たのなんて久し振りですよ。何年か前まではお酒を飲みながらDVDとか観るのが楽しかったものですが、最近は映画にも興味が無くなっていました。・・・これもきっと老化なのねぇ。色んな事に興味が無くなっちゃうのね(笑)。

正月、仕事で大阪に出かけていた旧友Nが来て、「関西の人って『ごはんですよ』が好きじゃないですか?」と言うので、思い返してみれば確かに思い当たるフシがある。記憶違いじゃなければ、修行場にも置いてあった(笑)。こっち(石巻)の人は沿岸部だからか、海苔の佃煮よりは海苔そのものを食べる方が多いんじゃないだろうか?ってな話をした。ついでに『ごはんですよ』の思い出話なんかもして、大笑い。
「そういや関西の人って白飯って食べないんじゃないですか?何かかけたがる」とも話は広がり、「粉文化だからかなぁ」。・・・「わし、お粥さんが食えへんねん」と言っていた奴も結構居たっけなぁ、と思い出した。「関西って米が不味いからぢゃないの?」なんて言う、関西人が聞いたら怒り出しそうな暴論も飛び出したのは秘密ですけどね(笑)。←って、ここで書いたら全然“秘密”じゃないだろー。

 

今週の雑談
仏教は言ってしまえば「小欲知足」の思想である。「小欲知足」と言われた時に“全くその通りだ”と同意をし、その様に生きようと思う人と、“そんな事を言ってたら経済活動が成り立たないじゃないか。購買欲を煽って欲しい物を手に入れる気持ちが必要だ!”と考える人とがあるだろう。
これはどちらが優れている等といった話ではなく、両方必要で、立場は人それぞれ。職種によっても立場が変わるだろう。だが、この価値観が異なる人間同士が一緒に親しく生活するのは難しいような気はするのだ(笑)。

 

今週読んだ本
1月14日
津田真一訳・『金剛頂経』を再読。『金剛頂経』とは『大日経』と共に日本密教では“両部の大経”と位置付けられる経典である。
和訳本なのだが、読書に結構時間が掛かった。経典というのは“唯のおとぎ話だ”と思って読めば(読み飛ばせば)、あっと言う間に読了できるものだが、何重にも意味が重ねられているので読む事に骨が折れる。研究者の中には一つの経典を一生涯かけて読み込んでいる人もいる位だ。
一つに何重もの意味があり、それは実際に行をしていないと解らない物もある。経典という物はある意味“マンダラ”とも言えるだろう。←意図が上手く伝わらない表現だけど(笑)。

 

1月9日(土)  仙台教室・拳法(打撃)基礎クラス
今夜はI藤君とS木君のみ道場に参加。
I藤君の套路をみてやる機会が殆どないので、今夜は(南方心眼流を中心に稽古しているS君には申し訳ないが)正宗太極拳を練習。
無駄な力みを抜く為の基本功をいつも以上に行なってから、3人で揃って太極拳套路を一度通し、その後、細部の指導。
課題も含めてみっちり套路を練習し、10時20分頃に稽古を終了した。
稽古終了時にI藤君が「有難うございました」と言ってくれたので、得るところがあったかな?と想像(笑)。

そういや余談なんだが、専作伝の22本目(最後の一本)を稽古していて、老先生にお会いした折りに「今日は一寸特別な事を教えてやる」と言われて教わった事が、“ここに活きているのか!”と気が付いた。

 

1月8日(金)  仙台教室・套路(型)クラス
昼間は暖かかったが、夜は少~し冷えた。
今年最初の稽古に参加したのは中学生I藤君、R枝さん、A目さんと娘さんの4名。
去年の復習をしよう、と云う事で先ずは九鬼神流棒術(Y先生伝)の型を。・・・皆さん見事に忘れていた気配。
天の型も復習。これは昨年末にしっかり練習したので、型の手順は覚えていた様子で一安心。細部を直したい所もあるので、今後手を加えます。
専作伝心眼流の初伝・片衣を練習。これも取り敢えずは型の順序を覚える事を目標にして大雑把に。
対錬類。中国拳法の物や柔術の物を含め、比較的単純な対錬を復習。単純=低レベルでは無いので、大事に稽古して下さい。
八卦掌の即用法。これは詳細は書かない。
推手。太極拳の推手を何種類か練習。久々の推手。
套路。それぞれ型の練習。中学生I君とA目嬢は少林拳を。O澤さんは正宗太極拳を丁寧に練習し、今まで雑になっていた事をご理解頂いたもよう(笑)。
で10時20分頃に今夜の道場は終了。

正月三が日の断食・御祈祷も、お蔭様で今年も無事に乗り切りました。今年は例年になく楽にこなせた断食でした。ま、食べていないと3日目には腹筋に力が入らず、読経がキツイのは仕方がない事ではあります。
何やら世間には“プチ断食”なる健康回復法があるそうで、話を聞くと断食期間中は体力温存の為か寝てばかりいる・・・らしいのですが、そんなんでは行としては下の下です(笑)。あくまで通常通りに仕事をし、労働をしつつ行なうのが正道です。←ま、これは坊主のタワゴトですから気になさらんよーに。
・・・などとエラソウに言う私も、毎年周囲の人達から「断食なんて大変だからやめなよ」と煩く言われるので、自身、何やら苦行をしている気になってしまうのですが(笑)、実は3日や5日の期間限定の断食なんてーのは種々の修行の中でも楽なもので、趣味というか遊びみたいなものです。
ですので、来年以降も継続する心算ですが、一々ここに書くというのも何やら“オレサマはエライんだぞ!”と自己主張している様でイヤなので(笑)今後は余程変わった出来事でもない限りは述べないと思いますが、その時期が来たら“あ、今年も断食中だべな”とご想像頂きまして、少なくとも三が日は酒瓶片手に寺に乱入して来て私の体力を削る様な粗暴な行為は謹んで頂きたく思います。ホントによ、頼むぜ(笑)。

 

今週読んだ本
1月4日
去年暮れから一寸ずつ読んでいた『あらすじで読む日本の名著①』を読み終えた。あらすじに纏めた人の力量はあるのだろうが、凄い小説はあらすじだけでも凄いね(笑)。この本、随分前に話題になった筈だから、読んだ人も結構多いんでしょうね。
さてと①は読んだ事だし、②は手元に無いので③を読み始めますか(笑)。

1月7日
ブライアン・ワイス著『前世療法②』を読む。前世というものが、この本に述べてあるままに存在するのかは別として、私が長い期間この世界にいて修行したり、思考したりして掴んだものと良く似ている所があるのは事実。
この本、『①』が一時期仙台教室の生徒さん間で流行ったので(笑)、もし読みたい生徒さんが居ればお貸ししますよ。

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