ここでは武術初心者の方への簡単なアドバイスをしてみたいと思います。
但し、不特定多数の方がお読みする可能性も有りますので、余り詳しくお話出来ない事も有ります。
その様な事柄に関しましては、書かない、もしや濁して述べてある箇所もあります事をご了承下さい。
又、ここでお話する事はあくまでも私の身体感覚や、個人的な経験を元にしていますので、
全ての人や場合に当てはまる物ではないと思いますし、無論絶対の事として押し付けるつもりも毛頭ありません。
参考程度にして頂ければ幸いです。
諸賢の、ご指導、ご鞭撻をお待ち致して居ります。
第二十一講
≪後方への技≫
後ろ蹴り系の技は、何も後方から襲ってくる相手にだけ使う物では有りません。
相手が強力で有るような場合、自ら敗勢を取って相手が追い込もうとした時に蹴るという、嵌め手が有るのです。
この手の技術は引っ掛かると効果的で、
一部の流派では「逃げる敵は追うな」という口訣が有る位です。
(2003,12,7)
第二十二講
≪相手と合わせない≫
例えばキックボクシングを学んでいる人を相手にする時に、
キックボクシングではない他の武術を学んでいる者が、
キックボクシングのリズム、タイミング、間合、パターン、といった
キックのスタイルで闘っては先ず勝てる訳がないのは自明の事です。
だが多くの人は半ば無意識にこの失敗を犯してしまうのです。
相手と合わせず、あくまで自分の武術の理合で闘う様にするのだ。
勿論、“自分のスタイル”が身に付くまでには、それなりの修行が必要となるのは言うまでもないけれど。
(2003,12,10)
第二十三講
≪痛めてる、だあ!?≫
手を痛めたので、足を痛めたので、「稽古を休みます」って奴が居る。
武術舐めてんのかっ!?(怒)
手を痛めてたら手を使わず、足を痛めてたら足を使わず、
右手が使えなかったら右手以外を使って稽古すれば良いじゃない。
(指導者に痛めてる旨を話せば、ちゃんとそれなりの稽古方法を教えてくれるから。)
“実戦”ってのは体調が万全の時ばかりに起こるんじゃないのよ。
どこか怪我をしてる時だって、襲われたら戦わなきゃならないでしょ。
そういう時の訓練にもなるんだから、少しばかりどこか痛めた位で稽古を休むんじゃありません!
(2003,12,10)
第二十四講
≪スパーリングは恐れずやろう≫
健康目的で武術を学んでいる人なら別ですが、“武術”として学んでいるのであれば、
散手(スパーリング)は欠かせない稽古です。
スパーリングというのは、何も相手と痛めつけ合うものでは有りません。
スパーリングを行う事で、互いに弱点を克服し乍ら、レベルを上げて行く為のものです。
一人稽古では決して身に付かない、沢山の大切な事が学べる稽古方法なのです。
確かに多少の痛みや打撲は付き物です。
緊張感や恐怖感も感じるかも知れません。
それらを克服する事も大切です。又、痛みや緊張感の中に、楽しみも見付けられる筈です。
初心者に近い人達がメチャクチャにやるなら兎も角、そんなに酷い怪我などしない筈です。
第一講でも述べた様に、順を追って取り組んで行けば良いのです。
軽く当てます。ライトコンタクトで。
もしも初心者にいきなりフルスパーをやらせるような指導者が居たとしたら、それは問題です。
入門して数ヶ月の人がスパーで肋骨を折った、等というような道場や、
指導者とスパーリングをして酷く怪我をした、というような道場は考えた方が良いかも知れません。
入門間もない生徒が骨折したりするのは、ちゃんとした手順を追っていないから。
指導者が生徒に怪我をさせるのは、指導者に余裕がないから。
どちらにしても少々問題です。
それは兎も角、経験の無かった人が、初めてスパーリングをやってみて、
“思ったようには(理論通りには)使えない”という事が解っただけでも、素晴らしい成果です。
それは“思ったように(理論通りに)使えるようになる為”の第一歩なのですから。
(2003,12,11)
第二十五講
≪武器の形状に拘る事なかれ≫
自分が手にした武器の形状に拘らない事はとても大切です。
例えば木刀。
木刀をもつと、剣道をやった事のない人まで、剣道的な使い方をしようとするのを良く見受けます。
それでは剣道をやってる人と立ち会ったら先ず勝てません。
その木刀の使い方を固定しないで、先の方だろうと柄の方だろうと、
峰の向きだろうと、そんな事には一切拘らず使ってみて下さい。
そう、まるで短棍や短槍を使うみたいに。
(木刀を槍を投げつけるみたいに使うのは、あんまりです。≪笑≫)
それと武器をもつと武器だけに意識が行っちゃう人が多いですが、蹴りなんかもどんどん使って下さい。
相手に武器を奪われそうになった場合、無理に取り合いなどしないで預けてしまうのも有効な手です。
そんな事に拘る事は有りません。こちらは素手も武器なのですから。
相手も木刀を持っている場合、相手の木刀を掴んで攻撃して下さい。木刀は切れません。
それに足元に攻撃された場合に、自分の持ってる武器でその攻撃を防御しようとする必要は有りません。
足を上げてかわせば良い筈です。武器を下に下げるのは、相手に上部へ攻撃する機会を与えてしまいます。
相手の武器を蹴って止めるのも良い手です。
何も相手の攻撃に自分の武器をカンカンぶつけて受ける必要は有りません。
足を使ってかわしながら、隙間を攻撃して下さい。
相手の攻撃に付き合う事は有りません。
拘わる事は不利となります。自由に扱う事を覚えましょう。
(2003,12,15)
第二十六講
≪本当の強さ≫
武術や武道を学ぶとすぐ、“俺は武術をやってるんだぞ”という雰囲気を作りたがる人は多い。
だがそれでは人に不快な思いを与えるだけである。
その“不快な印象”が、不必要な争いを生んだりする原因にもなる。
相手に不快な、怒りにも似た気持ちを与えない事は大切だ。
相手の怒りを溶かすのは、こちらの怒りではなく、柔らかさなのだ。
昔、私が坊主の修行をしていた頃、怒り満面といった感じの来客が有った。
その来客の態度に、応対した私も腹が立ち、相手がそれによって更に態度を硬直させた。
住職が居間に通して対応したのだが、数分後、来客の怒りは既に消え、住職に対して
「有難う御座います。有難う御座います」と、ペコペコして帰って行った。
・・・仏教にはこういう言葉がある。
「恨みに報いるに恨みをもってしては、ついに恨みの止む事はない。
恨みは、恨み無きによってのみ止む。」
武術を学んで多少腕力が常人より優れたからと言って、世間的には何の価値もない。
それどころか、その腕力を誇示する事で世間からは距離を置かれる事になる。
嫌われ者、になるのだ。
反対に武術を学ぶ事によって、本当の自信があれば、人と衝突ばかりする事は無いし、人と自然に付き合えるものだ。
本当の自信というのは人と比べたり、争ったりする事から付くのではない。
自分に負けない様に稽古を積む事を通してのみ、付くものなのだ。
何故、睨まれたからといって睨み返すのか。そんな必要がどこに有るのか。
一寸した事で、何故殴り返さねばならないのか。こちらに対して脅しを掛けたい程度の素人に
一、ニ発殴られた所で大して効く訳でもなかろう。
名人ほどいかにも武術家然としていない事を再考したいものだ。
・・・ウンザリする程、自戒を込めて。(笑)
(2003,12,17)
第二十七講
≪時間がない人の稽古方法≫
比較的時間に余裕が有る仕事に就いている人や、かなり長期間に亙って武術を稽古している人なら別として、
余り毎日の稽古時間が取れない人は套路を多く学ぶべきではないでしょう。
自分の知ってる套路を一通り復習するだけで小一時間も掛かる様では大変ですから。
時間の取れない方は単式練習を中心に、套路は少なく稽古するのが良いでしょう。
又、別の方法も有りますが、それはその人に合わせて指導者がアドバイスしてくれる筈です。
そうやって自分の生活スタイルに合わせた稽古方法を作り上げて行きましょう。
蛇足ですが、これは“武術”として学んでいる人への事であって、
健康の為に学んでいる方には套路が優れていると思います。
何事も“目的に合わせて”が肝要です。
(2004,1,4)
第二十八講
≪耳はダンボに≫
先生が自分や他の生徒に対して説明してる事は、
例えそれが自分には理解できない事で有ったとしても、ちゃんと聞いておきましょう。
何故なら、今は解からなくても将来その意味が解る時が必ず来るからです。
その時が来ると、「あれってこんなに重要な事だったんだ!」と思う筈です。
何事もそうですが、そのレベルに追い付かないと理解出来ない事は沢山あります。
先生が何気なく言った言葉、自分が何気なく聞いた言葉一つにも、重要なポイントが有ったりするものです。
(勿論、自分は何気無く聞いたとしても、先生の方はその重要さを理解して話している場合も多いのですが・・・
相手は語っているのに、受け取る側のアンテナがそれを拾えない。
この様な、受け取り側の能力に問題が有って大切な事が隠されている状態の事を、
仏教では“衆生の秘密”と言ったりします。参考までに。)
先生が自分に対して、又は自分の居る所で、その様に大事な事を話すというのは、
実はその先生が貴方の事を悪くは思っていない、という事にもなるのです。
折角教えてくれているのです。漫然と聞き逃さない様に、注意して。
(2004,1,7)
第二十九講
≪守・破・離≫
普通武術と云うのは(武術に限った事では有りませんが)、自分を型にはめる事から修行が始まります。
先ずは型にはめる事によって必要なものを作って行くのです。
この段階では多くの疑問を持つ事も有ると思います。
“これは何の為にやっている事なんだろう?”
“こんな事が何の役に立つんだろう?”などなど。
そこを徐々に越えて初めて、どんな状況にも即応できる自由な境地に到達出来るのです。
そこを通らなければ上達はない、と言っても過言では無いのです。
例えば重い木刀を振ってピタリと止める事が出来る様になれば、それは出来なかった時より確実に上達して居るのです。
倦まず弛まず一心に励みましょう。それは必ず報われる事であるのだから。
(2004,1,9)
第三十講
≪“即戦”と“鍛錬”≫
武術の稽古には二種類有る。即ち“即戦”稽古と、“鍛錬”稽古だ。
“即戦”稽古とは、読んで字の如く、即使う為の稽古だ。稽古している内容がそのまま使える。
対して“鍛錬”稽古とは、そのまま使う事が出来ないが、それをやっている事で3年、5年、10年後に効果の出て来る稽古だ。
鍛錬稽古には、“こんなモノ使えねーよ”と思う物も多い。その類のものは大体、一人、又は二人で行う“型稽古”になっている。
“こんなモノ使えねーよ”イコール“無駄”なものなのではない。
そのまま使えない事を、ワザワザ稽古させると云うのは、
その稽古の中から、身に付けて欲しい、気付いて欲しい、大切な“何か”が有るからだ。
“そのまま使えないから無駄。やんなくても同じ”なものなのではない。
若し本当に“無駄”なモノだとしたら、長い歴史の中で、その稽古方法が残って来る筈がない。
即戦稽古だけでは、才能有る者以外はすぐ限界が来るような気がするし、
大切な“身体の使い方”等を覚える事が難しいだろう。
(自分に可能性が有るか否かはさて置き)老齢になって、名人の境地を目指したければ、
鍛錬稽古は必要な稽古だろう。
又、(これも才能有る者は別だが)鍛錬稽古だけでは、何時までも使える様にはならないだろう。
10年学んで使えないモノが、20年やって突然使えるようになる訳は無いのだ。
あくまで私見だが、
“競技”では即戦稽古に、“伝統”では鍛錬稽古に偏し過ぎるきらいが有るのではなかろうか。
バランス良い稽古をしたいものだ。
何れかに偏し過ぎず、一方で即戦の為の稽古を積みながら、
一方では将来高みに立つ為の稽古を並行してやるべきだろうと私は思う。
(2004,2,16)