第六十一講
≪実戦ってなに?≫
近頃、表題のような議論が流行りだという。
曰く、「実戦ってなんだ? ケンカの事か? ははは」 ちゅう事らしい。
つまり、何処からが実戦と表現できるのか? という問題提起なんだな。
・・・なんでそんな事で悩んでんの?
何故区別をつけようとするのかな。
“守らねばならない何か”があり、“絶対負けられない”という状況なら、
道場の中だろうと外だろうと、
相手が素人だろうと玄人だろうと、
素手だろうが刃物を持っていようが、関係なく実戦である。
っちゅうのが、あたしの考えである。
2007,1,19
第六十ニ講
≪“講義”になってるか分かりませんが・・・≫
私が初めて形意拳を学んでから12年。最近、やっと分かった事がある。
一番最初に学んだ形意拳は、不細工な型だった。
“こんなんで人が打てるか?”と思うほど、頼りなく思った。
稽古する内に、何故そんな形なのか理解はできた。
その重要さ、必要性も良く理解できた。
けれど、その真の意味が分かったのは、ここ最近だ。
何故、不細工なのか。何故、力強くないのか。
こうでなければならないのだ。これが重要なのだ。
私が気付いたこの事を、弟子に教えるかは分からない。
しかし、ただ単に秘密にするという訳ではない。
言っても、おそらく、「へぇ~、そんなもんかぁ」と思うだけで、理解できないだろう。
やはり、自分の身体で得たものでないと、真の意味の理解はできない。
技術。その積み重ねられた歴史の中には、深い理由がある。
そこには、先人達の工夫が詰まっている。
例え、それがどんなに非合理に思えたとしても。
2007,1,29
第六十三講
≪実際やってみれば・・・≫
武術が好きだけど自分ではやってない、オタクとかマニアの人達には総じて才能がある。
好きなだけに、実際にやってみると、あんたたちゃホントに器用だ。
初心者の内から痛かったりハード過ぎたりするような稽古はかさないんだから、
怖がらずにやってみれば良いのに。
やってごらん。実際にやったら未来が変わるから。
2007,2,17
第六十四講
≪「痛いっ!」だなんて言ってちゃあ、いけません≫
第10講でも一寸述べましたけど、
武術を習い始めてすぐ、壁にぶつかるのが“痛み”。
打撃を習ってれば、相手の手足が自分の手足に当たる痛み。
関節を習えば、関節を極められた時の痛み。
どちらも想像以上の痛さがあります。
だけどね、痛みという物は、ある程度慣れるのです。
そう、正座の足のシビれに慣れるのと同じ(笑)。
痛みというのは、気持ちが負けるとホントに痛くなる物。
だから、少々の痛みなら気合いで吹き飛ばすのです(笑)。いや、ホントに。
我ながら少々理不尽だとは思う(?)けれど、打撃クラスに出て一年以上経つ生徒には、
「痛い時に『痛い』って言うな」と指導しています。
いや、確かに理不尽だよね。だって痛いんだもん(笑)。
でも、気負けしちゃダメ。
一年も経てばホントは随分慣れている筈。気持ちが負けてるだけなのよ。
だから良いのを貰った時には「痛い~」って言うんじゃなくて、
「痛い」って言う代わりに、「エェイシャー!」とか「ヨッシャー」とか気合をかけるのよ。
実際、私の道場では帯に色がつき、段々レベルが上がって来たら、
「痛い時には「痛い」って言うな! 良いのを貰ったら「エェイシャー!」と気合い掛けなさい。
痛みや恐怖で死にゃあせん。本当に良いのを貰ったら、痛いなんて言ってる間もなく倒れるんだから。
倒れる時には倒れるし、倒れるまでは倒れねーんだから。」
と教えています。(笑)
又、連続で攻め続ける稽古をさせていると、疲れて足も上がらなくなって来ます。
が、私は「ほら、疲れんな!」とハッパをかけるのね。
疲れてんのに「疲れんな!」って言われてもなあ…なんて事は重々分かり切って言ってるのよ(笑)。
健康の為や趣味でやってるのと、ホントに強くなりたい人の訓練は違うのです。
この話は次講に続きます(笑)。
2007,3,30
第六十五講
≪でも、女の子はね≫
64講で述べたのは、あくまで“強くなりたい若い男性”が対象です。
同じく“強くなりたい”という目的の方でも、
女の子や、身体の弱い人、年齢の高い人には少し違った方法で教えています。
例えば、相手の攻撃を防禦する。
又、こちらから攻撃したら受けられた。
最初はこれが痛い。
男性と女性が全く同じ事をやろうとするのは尊いけれど、
実際、性差による身体の違いがあるのは事実なのだから、
全く同じ事をやるよりも、それぞれに合った方法で練習する方が無駄がありません。
だから女の子にはステップと接触を生かす攻防を最初から教えるのです。
勿論、具体的なやり方は、ここには書きません。
女の子用のカリキュラムでは、一寸物足りないんじゃないか?なんて思ってるアナタ。
そんな事はありませんよ。
“女の子用”というのは、レベルが低いって意味じゃないんですから。
こっちの方がある意味ハイレベルなんだし、より中国武術的なのよ。
先日、石巻教室の女の子が、仙台教室の打撃のクラスに参加しました。
勿論、彼女には“女の子用のやり方”で指導しました。
「最初、女の子用のやり方って聞いた時は、つまらないのかなぁと思ったんですが、
やってみたら全然そんな事なかったです。とっても面白かったです!」
というのが、実際稽古に出た彼女の感想でした。
えこひいき? ・・・うるせーな、ヤローは痛くて良いんじゃ!(笑)
2007,3,30
第六十六講
≪なにがメインかな?≫
実は私も、幾分身体の衰えを感じるようになってから、走り始めました。
走るのって、慣れるととっても楽しい。
私はウエイト・トレーニングは殆どやった事がありませんが、
あれも多分楽しいし、遣り甲斐もあるのだと思います。
ですが、我々はランナーでもウエイトリフターでもありません。
武術修行者にとって、筋トレもランニングもメインメニューではなく、あくまで“補強”です。
そこを忘れちゃなりません(笑)。
筋トレばっかりしてる位なら、套路や兵器で鍛え上げた方が武術としては効果的です。
走ってばっかりいる位なら、その時間をスパーリングに充てましょう。
走るのは稽古の仕上げです。
「空いた時間の補強として、走るのと筋トレとどちらかを選ぶとしたら、
どっちを選んだら良いでしょうか?」
という質問には、私はこう答えます。
「ファイターには、筋トレよりもランニングの方が必要である」 と。
必要ない、と言ってんじゃないのよ。やる事やって余剰の時間があるんならやった方が良いのよ。
2007,4,23
第六十七講
≪全ては武術の為に≫
前講と重なりますが、
武術家であるならば、全ての補強運動は武術の為でなくてはなりません。
例えば、走る事もそうです。
やたらめったら走れば良いちゅーのではなく(笑)、
あくまでも“武術の走りかた(詳しくは述べません)”をしなければ、
ただの体力トレーニングになってしまいます。
私が走る場合は、
1、絶対に歩かない(止まらない)事。何があっても走り続ける事。
2、武術の走り方をする事。
のニ点を己に課しています。
走りながらでも武術の運足・体動をする事で、武術のレベルを上げる術(すべ)とします。
しかも、武術の走り方をすると疲れないんだ(笑)。
同じ距離を走っても体力の消耗は半分。
しかも使う体力の割には速い。
そりゃあ私は走る事の専門家ではないから、走り屋さん(?)と比べれば遅いとは思います(笑)。
私は鈍足でした。小学校~高校まではカケッコは後ろから数えた方が早かったです(笑)。
が、八卦掌や形意拳が身につき、歩き方が変わると、走るのも若い頃より速くなりました。
これも、武術効果です(笑)。
あ、そうそう。蛇足ながら一つだけ。
夜走るなら道着が良いです。白だから目立つ。
青や紺など、黒っぽい服を着てると、不注意な車は気が付かなくて時々危ないの(笑)。
2007,4,26
第六十八講
≪中途半端はダメよ≫
私の道場では、学べる拳種が多いです。ざっと挙げても、
形意拳、八卦掌、陳氏太極拳、正宗太極拳、少林拳、酔拳、柳生心眼流、古流柔術。
そして夫々に伝わる武器術があります。
こんなに拳種が多いのは、私が長い武術人生の内で色々なご縁があった事、又、
一人の先生が幾つもの拳種を修めている場合があり、それら全てを習ったからです。
先日、ある雑誌に
「昔から都心(?)では道場も多かった為、剣術、柔術など、夫々の専門に分かれて指南していた。
対して地方では、一つの道場で幾つもの事を教える道場が多かった」
と書いてあるのを読んで、なるほどなぁと感心しました。(笑)
確かにそう云う傾向ってあるかも知れない。
翻って、バリバリの地方道場である私のトコでは(笑)、
例に漏れず多くの拳種を指導しています。
で、門下生は希望する拳種のどれを選んでもよい事にしています。
が、こうなると一つ問題が出て来ます。それは、
“あれもこれもチョットずつかじって、結局モノにならない”
場合があると云う事です。
私は幾つかの拳種を同時進行して学ぶ事をダメだとは言いません。
が、新しい事を学ぶからといって、
その前まで学んでいたものを練習しなくなるケースがいかんのです。
兼修するほど稽古しなければならない事は、増えて行く筈です。
でないと、一寸ずつかじっただけになってしまうのです。
健康の為や、趣味の為にやっている人ならそれでもオッケーです。
ちゃんと効果が出ます。
が、武術を武術として学んでいる人は、それではイカンのです。
先ずはどれか一つ、“これが好きだ”ってのを中心に据えましょう。
浮気するのは、そいつがある程度出来るようになってからですぞ。(笑)
2007,4,28
第六十九講
≪少年指導雑感≫
中高生の門下生は受験が近付くと休会する場合がある。
「道場を休む」と本人が言い出すのではなく、
親が「休んで勉強に専念しろ」と言うケースが多いようだ。
本人から「勉強の為に休みたい」と言い出したならともかく、
親が言うのは間違ってるような気がする。
一週間のうち一回や二回道場に行ったからと言って、どの程度勉強に支障が出るだろうか。
机に向かっている間中、ず~っと集中して勉強してるって訳でもないんだから(笑)。
なら、かえって週一でも運動させた方がストレス発散にもなって良いってもんだ。
本人が好きで道場に通っているなら尚更。
私の道場には現在、小中高生はいないけどね。(個人教授は別だけど)
小さいお子さんに武術を教えるのって、労力の割に(色んな意味で)報われないのだ(笑)。
2007,5,15
第七十講
≪むふふふふ≫
本来的には流儀や道場に優劣はないんだよね。
それでも差が出ちゃうのは、
結局学ぶ側が本気で学んでるかどうかと、
教える側が本気で教える気があるかないか、なんだわさ。
え? 私かい? もちろん教える気はバリバリあるよ。
例えば皆が三穿掌やってる時に、ちょこちょこ機会を見付けては細かく説明してるでしょ。
あれだけで本なら10ページ分は書ける内容なのよ(笑)。
それと、もう一つ例を挙げるなら、
「構えだと思うかも知れないが、実は構えじゃないんだよ(以下略)」っていうやつ、
あれだって充分に技術書の内容になるコトなのですよ。
これらは知ってるか知らないかで実用に凄く差がでる事よ。
そういう大切な所を秘密にして教えない先生もいるよ。だけど私は教えてるでしょ(笑)。
もちろん“良い物”さえ習っているんなら、教わらなくてもいつか気付くよ。
だけど教えて貰った方が遥かに早い。
ってな訳だ(笑)。
2007,5,18