第十一講
≪先生の人格? ナニそれ?≫
はっきり言って、武術家に人格を求めるなんてナンセンスだと私は思います。
考えてみたら解るでしょ? 武術家なんてのは50になっても
“あの陰から暴漢が飛び出してきたらどう倒すか”なんて考えてる人種なのよ。(笑)
そんな人種に人格なんて求めるの?
技術が優れてる人には人格も優れてて欲しい、だなんて一寸おセンチなんじゃないかしら?
いいこと? 用が有るのは人格じゃなくて技術でしょ?
第一、昔から技術者なんてのは、頑固で意固地で意地っ張りって、相場が決まってるでしょ。(笑)
「○○先生、人格が一寸あれだから辞めた」って言う人は何時の世にも一定数居るけれど、
それって自分が続かない事の言い訳にしか聞こえないけどなあ。
直接なんかされたんなら別として。
どう? そうは思わない?
やるなら一所懸命。自分の事を考えてやる。
・・・そんな下らない事で一度“やろう”って決めた事を辞めちゃうだなんて、
勿体無いような気がするんだけどなあ。ホント。
でも文句言う人に限って、その先生にとても良く面倒見て貰った人で有る場合が多いような気もするんですよね。
なんだか話聞いてるとそういう印象を持つ時があります。
そしてそれはご自分でも解ってるみたいです。
・・・結局、親しくなり過ぎるからなのかな?
おっと、これは余計な事でした。(笑)
(2003,11,24)
第十二講(?)
≪余談なのですが・・・≫
このHPを読んだ生徒さんに、「書き過ぎだと思います」と言われました。
「HPというのは写真を貼って、簡単な説明を付ける程度で良いんじゃないか」との事。
う~~ん。成程・・・一理有るかもなあ。
ま、でも、このHPに書いてある事は基本的な事柄ばかりだし、全体にかなり濁して書いているし、
大事な所は書いてないと言っても過言ではないかも知れません。
具体的な方法も書いている訳では有りませんし。
何よりうちの生徒の役に立てば・・・と思って始めたHPなのです。
だから納得して下さい。(笑)
道場ではもっと具体的に教えておりますし。
だけど私に月謝を払ってくれている生徒さんが「書き過ぎです」と言うからには少し考えなきゃかしら?
でも、私の腕じゃHPに写真を貼るなんて一寸無理だしなあ・・・(笑)。
う~むむ。
ま、悩むなんて私には縁のない事ね!(それがオチ?)
(2003,11,27)
第十三講
≪全ての道は一つに繋がる≫
皆さんは何の為に武術を学んでますか?
健康の為? 趣味世界を広げる為? 強くなりたい為?
今回は「強くなる為だ」、という方にお話です。
強くなろう、何処までも強くなろうと思って稽古していると、何時か“強さってなんだ?”
と云う問題に突き当たります。
“本当に強い”ってどういう事だ? という問題に直面するのです。
この時、気が付きます。
自分が欲しかったのは、ただ腕力の事ではない。人としての強さが欲しかったのだ、と。
武術(腕力)は目的ではなく、“人としての強さ”を手に入れる為の手段に過ぎなかったのだと。
そうすると解る事があります。
凡そこの世に“強い”人間など居ないと云う事が。
皆多かれ少なかれ“弱い”のだ、という事が。
“強い”“弱い”、“優れている”“劣っている”・・・そんな事にとらわれている内は、決して“強く”なんか在れ無いのだと。
本当の“強さ”というものは、そう云った物を離れた処に有るのです。
その世界は“あらゆる束縛から離れて自由になる事”です。
“あらゆる束縛から離れる”というのは、環境を変えて気楽に生きる事では有りません。
“強弱”、“優劣”、“自他”、“苦楽”。 そういった自分を縛り付けるくびきから自由になる事です。
死からも、生からも、幸からも、不幸からも、そう、そういった“区別”から離れる事です。
それは“自分から離れる”事だと言っても良いかも知れません。
それは仏教風に云えば、“覚り”です。
長い武術生活の内には、稽古もそこを目指してやる事が大切になります。
何時までも“人を倒す”ことばかりを追い求めて稽古するのではなく、
そう云った小さい事を離れて、宇宙大の大きさを感じて稽古するのです。
宇宙と一つになるつもりで、大きな空気を感じながら稽古するのです。
私達この地球に存在するものは、凡そ全てが宇宙の一部です。
それは全体を構成する、小さいけれど尊い一つです。
その大小の両者は別の物なのではなく、同じ一つものなのです。
武術と云うものはそれに気が付く為の手段なのです。
そして解ります。
武術も仏教も書道もお華も絵を描く事も、凡そあらゆる芸事は一つに繋がるのだという事が。
そしてその時、武術は“動く禅”、“動禅”になります。
(2003,11,27)
第十四講
≪威力を付けたきゃ単式練習≫
強い破壊力を身に付けたいのなら、套路(型)より単式練習である。
単式練習と云うのは、一つの技(又は幾つかの動作で構成された技)を反復して練る練習である。
足を止めてその場でやるものより、歩を進めながらやるものの方が色々な意味で効果的である。
解り易いように、空手の表現を借りれば、
“その場正拳突き”より“追い突き”(移動稽古)の方が効果的だ、と云う事である。
強い打撃力を持つと云う事で有名な流派程、総じてこの単式練習に時間を掛けるものである。
形意拳にしろ、八極拳にしろそうである。
殊に形意拳は、単式練習で成り立っていると云っても過言ではない。
単純な技を繰り返す事によって威力有る技にするのだ。
詰まるところ、反復練習こそ命、なのである。
尚、タイミングや角度など、注意点を守って練習する事が上達の早道である。
(2003,11,29)
第十五講
≪あれは何のマーク?≫
太極拳の黒と白のヒトダマがくっ付いてるようなマークが有るでしょ。
あれは何を意味するのか知ってますか?
細かい説明をすると冗長になってしまうから、ポイントだけ説明します。
この宇宙の全ては陰と陽の要素から成っていて、その二つは全く別の物なのではなく、
相互補完的に動いていく事を意味しています。
そして、全ては“流転する”事を意味しています。
つまり“あらゆるものは動き続ける”って事を言いたいのね。
そのマークを太極拳に使った人って、凄く良いセンスだと思います。
興味の有る人はご自分の先生に聞いてみて下さい。
中にはこの理論を技や相手との関係で説明してくれる先生も居る筈だから。
そしてそういう先生についたのなら、その縁に感謝する事です。
(2003,12,2)
第十六講
≪技術書は役に立つ?≫
書店に行くと並んでいる武術関係の本や雑誌。好きな人はつい買っちゃったりして。
実を言えば、私も十年程前まではそういう本や雑誌を良く買いました。
その頃までに市販されていたその手の本は、殆ど持っている程です。
でも正直、お金を遣った程には役に立ちませんでした。
例え内容の良い本であっても、自分の稽古している流儀と違うものでは役に立たない事も多いし、
もっと言えば、自分の練習しているスタイルの本であっても、先生の系統が違うと役に立ちにくいのです。
それらの本を参考にしても、次に稽古に行くと自分の先生に直されちゃったりして(笑)。
勿論普遍的な事柄というのは有りますが、それを.理解する為には、
読み手にそれなりの経験、即ちレベルが必要です。
ですから、本を買い漁るよりは、自分の先生のレベルが納得の行くものなのであれば、
単純にその先生を信じて付いて行く方が結果が出ることが多いようです。
ある程度“結果が出た”レベルになれば、今度はそういう本は読まなくなったりしますし、
また、読めば重要な所は解る様になります。
それに本やビデオは基本的に、その流派の宣伝物と考えた方が良さそうです。
「大事な所を数千円で買えるような本に書く訳ないよ」。・・・これは私の先生がおっしゃってた事です。
うちの生徒が言っていました。
「類書を読むと、例えば蹴りの説明がしてあるけれど、
その蹴りをどうやったら上手に蹴れる様になれるのかって所が本には書いてないんです。
習えばこそ、そういう部分を教えてもらえるんですね」。
本に載ってるのがどんなに良い技でも、素晴らしい理論であっても、
矢張り自分が汗して身に付けたもの以外は全く役に立たないものです。
そしてその素晴らしい技や理論が理解できる様になった頃には、もうそういう本は要らなくなって居るのです。
そういう本を読むな、なんて言っているのでは有りません。
読み物としての楽しみ方も有りますし、中には素晴らしい出来の本に当たる事も有ります。
ですがそれらの本の多くは殆ど役に立たないと知って読む事も大切だと思います。
(2003,12,2)
第十七講
≪試合にもどんどん出よう≫
修行中に試合を経験する事について私は賛成です。
夫々の試合には夫々のルールが有り、ルールのない技術体系を有している
古い武術を学んでいる修行者には決して有利とは言えませんが、
その決められたルールの中で自分がどの位闘えるのか、
そしてどれ位勝ちにくいのかを経験する事は、当人の武術人生の中で必ず活きると思うからです。
特に伝統武術(古い空手や柔術、拳法等)を学んでいる人は
掴みや投げ、関節や急所攻撃を禁じられている大会に出ても意味はない、などと言わず、
限定されたルールの中でどの位やれるか挑戦してみるのは良い事です。
ある意味負けて当然の事なのですから、臆せず経験すべきです。
なあに、数回経験する内に、そういう闘い方にも身体が慣れますから(笑)。
それによって自分の流儀の短所が発見出来ると共に、長所も改めて実感出来る筈です。
・・・でも、試合にはまり過ぎて(笑) 試合用の技術ばかりを練習する様になるのは、チト困りものです。
(いや、もしも“こっちの方が自分に向いてる”と思うに至れば別なのですが。)
何故なら、試合では有効でも実戦では使いにくい、若しくは使用頻度を減らさなければならない技も有るからです。
例えば回し蹴り。
破壊力も有り、横から(視界の外から)飛んで来るので、コンビネーションの立て方次第でとても効果的ですし、
蹴りを知らない人が相手の場合は、単純に蹴っても当たったりするものです。
が、いかんせん金的蹴りを食らい易く、且つ相手に突進され易い、という欠点が有ります。
・・・こう言いますと、「狙って金的を蹴るのなんて容易ではない」と言われそうです。
確かに上手い人の回し蹴りに金的蹴りを合わせるのは容易では有りません。
ですが、相手がメチャクチャに蹴ってくると、偶然、その蹴りが金的に入ってしまう事が有ります。
入ったらオシマイです。金的は直撃すれば一発で終わりです。
稀に「金的に入っても効かない人が居る」と聞く事が有りますが、私の経験ではそれは的確に金的に当たっていないのです。
わずかにポイントがずれているのです。
少し場所がずれるだけで結構耐えられるものだからです。
ですから回し蹴り中心のスタイルと云うものを作り上げて、技術がそれだけになってしまっては、
実際の局面では厳しい場合も有るのです。
又、昔日の武術家は「試合をすると技が荒れる」と言って嫌いました。
「試合をすると技が盗まれてしまうので、いざという時に不利になる」とも言いました。
確かに初心者が勝ちにこだわって試合をするとメチャクチャな動きをします。
これは微妙な動きを重視する武術では禁止されて当然では有るでしょう。
相手が刃物を持っているかも知れない状況では、一瞬のメチャクチャが命取りになる事が有ります。
だからそればかりやっていてはいけない事は言うまでも有りません。
現代に当てはめて考えれば、前述した様にこういう試合向きの稽古ばかりしていると
試合向きの技術体系になってしまう、という注意だと解釈する事も可能かも知れません。
「技が盗まれる云々」に関しては、使える技が限定されている以上、余り神経質になる必要はないと思います。
又、“構え”も古い武術では正中線に手を取る事が多いですが、
現今の試合スタイルでは俗に言う“組手構え”の方が対処し易いです。
では何故古い武術と今の武術では構え方が違うのか、についてはここでお話する事は流石に抵抗がありますので、
両者は“戦い“の考え方が違うのだ、という事だけ述べておきたいと思います。
この事は武器術を並行して学ぶ事で、自動的に解ると思います。というヒントだけ。
このような“違い”というものを充分理解した上で、
稽古の一環として試合に参加するのは必ずや大きな収穫をもたらす筈です。
今は他流派の修行者にも門戸が開かれている大会が全国各地で開催されています。良い時代です。
若いうちは機会を見つけてドンドン参加しましょう。
(2003,12,3)
第十八講
≪視野を狭めるな≫
自分の学ぶスタイルを“最高だ”と思うのは力になります。
けれど、余りにもそう信じ込んで他のスタイルに目を向けないのは時に弱点になります。
打撃を学ぶ人は、組み技を
“あんなのは組んで来たら殴って止めれば良い”“蹴って止めれば良い”
と思いがちです。
そう信じて組み技のスタイルを軽視(無視)して来た事が、
打撃がブラジリアン柔術に簡単に負けてしまった原因です。
又、反対の事も言えます。こんな話をしましょう。
組み技を稽古している人がこう言いました。
「俺達は首を鍛えているから、少々のパンチなんて効かない。
一発殴らせておいて掴まえてぶん投げる(或いは「殺し合いなら首を折る」)」。
それを聞いた打撃修行者と立ち会う事になりました。
組み技の修行者は一発や二発食らっても良い様に、腰を落として構えました。
瞬間、打撃の修行者はパンチではなく、指先で目を突きに行きました。
組み技修行者は目を突かれそうになったので、流石に首を振ってかわしました。
その瞬間、金的を蹴られてKOされました。
・・・これは“自分の視野からのみ相手を判断した”為に起こったミスです。
自分の視点から相手の行動を判断するのは大変危険です。
武術を稽古する者は、自分と違う視点も手に入れなければなりません。
長い武術生活の中では、ある程度基礎が身に付いたなら、他のスタイルも勉強してみた方が良いでしょう。
それはきっと、貴方の力になる筈です。
(2003,12,3)
第十九講
≪日本語と仏教は学んだ方が得≫
第十六講の続きの様になりますが、昔日の名人の書いた本には素晴らしい内容の物が多く、
現代刊行されている本の殆どは、その足許にも及びません。
心と身体の使い方。一致のさせ方。
(日本風に言えば心・技・体でしょうか。中国風に言えば六合でしょうか。)
そして心の処理に対する示唆の深さ。
相手との戦い方、戦略、等など。
その教える所は非常に多くのものです。
ですが、それを理解する為には、それを書いた人が生きていた時代の“基礎学問”を、
読み手側の我々が理解していなければナカナカ読めないのも事実です。
そしてその様な本を書いた人達は、当時の最高水準に近い学問を学んでいた人が大部分です。
当時の人達の基礎学問というのは、主に仏教と漢書です。
私達の側にそれらの知識が無ければ、所々に引用される用語や考え方の時点で躓いてしまいます。
何が重要で何が補助なのか、それすら解らなくなってしまう事も有る位です。
要点を捉える事が難しくなってしまい易いのですね。
そして何より当時の日本語が読める事が何より必要です。(って、当たり前か)
なので、それらを知らない事には伝書は読んで行くのが難しいのです。
伝書を読むには、日本語と、仏教を初めとする東洋哲学と、武術の知識が必要なのです。
試しに柳生宗矩の書いた『兵法家伝書』を読んでみると良いでしょう。
良い本ですよ。岩波文庫から安価で出ています(笑)。
読んでみると、その三つが必要な事を強く思う筈です。
武術だけ知っていてもナカナカ大変。仏教だけ知っていてもナカナカ大変。
古文にだけ詳しくても、その意味する所はお手上げの筈です。
ま、勿論武術の本ですから、武術に詳しい人なら他の二つがやや曖昧でも何とかなるとは思います。
少し脱線しますが、って、かなり脱線しますけど。(笑)
近代の日本は、政教分離を掲げる余り、
古い日本人の基礎知識となっていた部分の仏教哲学まで失ってしまいました。
その結果、理論的・合理的になった筈の多くの日本人が、
理論も無くただ迷信と思い込みだけがその内容となっているような、
怪しげな宗教に騙される様になってしまっている様に思います。
また、日の吉凶などに振り回される者の多い事、嘆かわしい程です。
“世間”からみたら“迷信の固まり”の様に思われている“仏教”に携わる私達プロの宗教家の方が、
余程そのような世間を取り巻いている“迷信”から離れているのが面白い所では有ります。
ま、英語も仏語も良いけれど、先ずは日本語が理解できる様になりましょうや。
・・・これって言い過ぎかな?(笑)
(2003,12,6)
第二十講
≪前膝を曲げすぎない事≫
打つ時に、前膝を曲げ過ぎない事。
特に前膝が、つま先を越える程曲がっては威力は出ないものです。
体重を前足に全部掛けてしまうのも考え物です。
(初歩の稽古方法としてなら別ですが)
これらの様な状態で拳を打ち出しても、それでは“ハードなプッシュ”になってしまうのです。
空手や拳法に限らず、上手い人の写真を見てみると納得出来るでしょう。
(2003,12,7)