top of page

第百二十一講

≪基礎体力!≫

 

『指導日記』上で、大槍(大竿子)について触れたついでに思い出した事をこっちに書いときます。

↑そんなお気楽なスタンスでいいのか? いいのさ。

 

取りあえず、4メートルの手すりを買って来て、マニアの大好きな(笑)、欄・拿・チャーをやってみて下さい。

正しいやり方は先生に習って下さい。

普通の人なら、結構重さを感じるかな?

無駄に歯だけ食いしばってたりして(笑)。

やってみれば、“功夫”とかいう以前に、基礎筋力が必要だって事を痛感しますよね?

功夫なんつうのは、最低限の体力あって初めて言う台詞です。

 

“功夫”と云うと、身体の使い方や、気と体の一致とかばかり考えている人もいるようですが、

筋力やスタミナも合わせて“功夫”だと云う事が解っても良いんじゃないかな。

その手すり棒を、毎日振るのを日課にしてご覧なさい。

何より先に、筋肉が付くから(笑)。

 

「必要最低限の基礎体力」の、“必要最低限”のラインが思っていた以上に高い水準である事が解りませんか?

解れば結構。そこからスタートしましょ。

 

 

筋力否定、スタミナ否定。それも良いでしょう。

確かに、武術的な“技”は筋力の強大さとは別問題です。

が、へなへなじゃー結局、力持ちに敵いませんよ(笑)。

技量が同程度なら、力の強い方が勝ちます。

 

 

例えば、私が習った柔術では、力を抜いて相手に合わせる、とは教わりませんでした。

掴む方も、掴まれた方も、フルパワーで稽古しました。

それが出来るようになった上で、「力じゃない・技なんだよ」と、深い部分を教わりました。

技以前に体力的な部分もしっかり鍛えるって事ですね。

その先生の手首なんて、普通の人の腕ぐらい有りましたよ。

先生と風呂に入ると、身体の違いにビックリしたものです。

まだ20代の我々より、50代の先生の方が無駄なく締まっていましたから(笑)。

 

 

昔の人って体力有ったんですよ。農家なんて特に。

重い物を運ぶのは自分。

長い距離を歩くのも自分の足。

農作業なんて、毎日が鍛錬(笑)。

今の人達とは比較にならない程、力が有ったのですね。

重い物を担ぎ上げるコツも、毎日やってる内に自然と身体が覚えてくるんでしょうね。

大槍を振ってるうちに少しは筋肉も付くし、身体の使い方も憶えます。

良い練習ですよ、大槍。

 

余談ですが、実際、私の父親達の世代って力、有りました。

私が子供の頃、父は100キロは有る大きな木箱を一人で運んでましたもの。

今の私等に出来ますかね? 手掛かりの無い大きな100キロ箱を、一人で運ぶなんて。

 

あえて厳しいことを言うなら、

普通に肉体労働やってる人達より筋力・スタミナのない武術修行者なんて、使い物になりゃーしませんよ。

筋トレなんて殆どしない私でさえ、普通の肉体労働の人には力で負けなかったですよ。

まあ、中には化け物みたいな筋力の人もいたんで、そういう人には力じゃ敵わなかったですけど(笑)。

 

功夫? 身体の使い方? 

・・・笑かしちゃーいけません。

初心者には、それ以前の条件が有りますよ。

戦う為に、武術やろうってんなら、ね。

おがんばり あそぁせ。

2009,2,5

 

第百二十ニ講

≪弱点克服≫

 

どんな人にでも、又、どんなレベルになろうとも、弱点というのが有ります。

この人にはどうしても押さえ切られてしまう、とか、

この人には上手くカウンターを合わせられてしまう、とか、

コンビネーションに引っ掛かってしまう、とか、

どうしても打たれてしまう、とか。

それは、相手が自分の弱点を突いて来る人だからです。

そういう相手は、自分の練習相手として最高です。

自分の弱い所や、足りない部分を指摘してくれるのですから。

そういう相手を“苦手なタイプ”として敬遠してしまう人も居ますが、それは余りに勿体無いです。

どんどんやって苦手を克服すべきです。

 

 

あれ? なんか同じような講義をした気がする(笑)。

何度も似たような話をするなんて、耄碌したか? 俺。

2009,2,19

第百二十三講

≪一応補足しときますか・・・≫

 

 

以前にも同じ意味の事を述べていますが、わざわざ古い記事にさかのぼって読む生徒も少ないと思うので、
もう一度注意をば。(笑)

 

121講で述べたことは、技や身体操作の否定ではありません。

又、筋力賛歌でもありません(笑)。

反対に、いつまでも力や速度に頼っていては、更なる向上は得られないのですから。

実際、私の指導を受けている人であれば、私の動きや戦い方が、筋力と速度に頼ったものでは無いと云う事は充分理解できていると思います。

身に付けば、女性でも男性が力を入れた状態を崩せる、という動き(技術)を教えている事は解っているでしょう。

 

ここで私は、武術を始めたばかりの初心者が

「力や速度より、技」

となる事を問題視している訳です。

これは、はっきり片寄りです。

現実は甘くありません。

自分の身体は立派に動いても、相手に触れられない、

単純に身体を鍛えている人に負けてしまう、

という事に陥りかねません。

 

実際の相手は、練習とは違った動きをします。

全く想定外の反応をされる事もしょっちゅうです。

確かに、正しい動きが完璧に身に付いていれば、どのような変化にも対応出来るでしょう。

しかし、それが出来るのはかなりの上級者です。

普通は、力やスピードで対応せざるを得ない場合も少なくないものです。

 

ですので、基礎の型すら憶えていない段階の人が

「力に頼らない技」
などと言うのは間違っています。

 

今の若い人達の中には、驚くほど基礎体力の無い人も目に付きます。

女の子程度の体力しか無い男子がいるのです。

私は、そういう人が「力より技」と考える事を、大変危惧しているのです。

 

“強さ”を目的としていない人なら、純粋な技術のみを求めれば良いと思います。

でも、“強さ”を求める人になら、私は“現実”をもっと見て欲しいと思っているのです。

 

ま、そんなところ。(笑)

2009,2,26

第百二十四講

≪やりたい事はやってみれ≫

 

漫画の影響なのか、ゲームの影響なのか、

「八極拳をやりたい」

という問い合わせが、結構ある。

しかし残念ながら、宮城県では(今の所)正式に八極拳を教えている教室は無いようだ。

私は個人的には稽古しているが、教える程の技量ではないと判断し、八極拳は教えていない。

 

習いたくとも教室が無いせいか、比較的八極拳と近い形意拳を、私の教室で学び始める人もいる。

で、学ぶうちに、形意拳に満足するのか、

「他の教室で八極拳ではなく、ここで形意拳を習得したい」

と言うようになる生徒も居る。

しかし、私は可能であるのなら、可能性を追求してみても良いんじゃないかと思う。

八極拳を学びたいのなら、いつか都心で仕事を見付けて教室のある地域へ引っ越せば良いんじゃなかろうか?

 

その上で、最終的にどれを選択するのか決めても良いんじゃないの。

 2009,3,14

第百二十五講

≪ジジイの昔話≫

 

今は昔と違い、稽古でなるだけ怪我をしないようにと、どこの道場でも気を付けるようになった。

「強くなる為の稽古で怪我をしては元も子もない」。

近年では、無理しなくても技量を上げる効果的な練習方法が確立されて来ているから、

昔のような潰し合いの稽古をする事もなくなった。

 

昔のスパーリング(自由組手)は、お互い叩きのめす気満万で、

中途半端な攻撃なんか出せばカウンター合わせられて肋骨折られたり、

蹴りに膝や肘を合わせて痛め付けたりは日常だった。

 

今ほどの技術を持ってなかった当時、相手が大きい場合、小さい私は良く相手の手足から壊した。

懐に入れなくても、相手の手足は前に出てくるからだ。

 

全体がそういう組手だった。

決して練習相手を思いやるようなものではない。

今でも、その気になればそういう組手も簡単にやれる。

しかし、今の時代にそれをやったら、生徒はすぐに辞めちゃうだろう。

若しかすると、訴えられちゃうかも知れない(笑)。

 

今の時代、“上達する為に合理的な稽古”をする。

上達する為なのだから、人それぞれのペースを大事にする。

無茶はさせないようにしながら、レベルを上げていく。

無茶な稽古を強いて、人一倍気合の入ってる者(笑)だけが最後に残るというのではなく、

気持ちの弱い人も、時間を掛けて上達できるような稽古をする。

誰にでも出来る、誰でも上達できる、そういう指導が出来なければ、指導者失格なのだろう。

 

昔は毎日のスパーリングが、毎回“本番”だったもんなぁ。

2009,3,14

第百二十六講

≪名人ぶってみたり(笑)≫

 

呼吸と武術(動き)の関連について、質問される事がある。

そして、この手の質問をする殆どが初心者である。

 

ここには当然、具体的な方法は述べない。

が、呼吸と言うのは全てにおいて大切な要素である。

 

おそらく、初心者に幾ら説明しても納得出来ないだろう。

そのレベルになった時、私が道場で話していた意味が解るだろう。

 

 

そしてそれは、109講で述べた事と、深く関わってくる。

2009,3,14

 

第百二十七講

≪何故、武術をやるのか?≫

 

表題のような疑問は、武術を学んでいる者からも、又、そうでない者からも発せられます。

そして、武術(武道)を学んでいる者の多くが、その答えを探しながらもはっきりした答えを打ち出せず、
誤魔化しているように思えてなりません。

ここに述べる事は、その疑問への私なりの答えでも有ります。

 

 

今から述べようとする内容は、前講同様に初心者向けの話ではないので、ここに述べようか迷ったのですが・・・

というより、HPなんかに書いても仕方のない内容なのですが、一応。

 

 

私が太極拳を始めたばかりの頃、師匠が

「太極拳は宇宙の大きさを感じて行なうのだ」

と言いました。

“なるほど”と思った私は、そのような心持ちでやってみました。

すると、

「違う。君のそれは覚っている。武術は戦う為のものだ。覚ってしまってはいけない」

と言われました。また“なるほど”と納得し、以来、その言葉を念頭に置いて稽古しました。

 

それから数年が経った時、師匠が武術と覚りの関係のような話をしました。

以前注意された事との齟齬を感じた私は、素直に、

「以前このような事があり、先生にこのように言われましたが」

と質問をぶつけてみました。

すると師匠は、言葉少なに、

「俺もあの頃とは随分変わったからな」

と考えが変わったと教えてくれました。

 

私は「自分の方が正しかったのではないか」等と、師匠に反感を持ったりはしませんでした。

“そうかあ”と素直に納得しました。

考えるに、太極拳を始めたばかりで未だ形も憶えていない、力みすら抜けてない私が、覚ったような套路を打つのは間違いでしょう。

それは生意気というものでしょうね。

師匠はそこを指摘したかったのだと思います。

 

 

 

実は、武術の呼吸と仏教的瞑想の呼吸は近しいものが有ります。

これが解ると、それまで絵空事であった“武術と人格完成”とが現実味を帯びて来ます。

互いの方法に近い部分が有るからこそ、昔の武術家は最終的には宗教関係へ共通項を見出したのかも知れません。

 

私なぞ、やっとその入り口が見えたに過ぎません。

覚り、なぞ一生無理かも知れません。

相変わらず煩悩にまみれている私ですから、一生、その周辺をぐるぐると回って人生を終えるのかも知れません。

「手に入れてしまえば、これがそのままそれだった」

という所までは解っています。

が、それと一つになるというのは、なんと難しいものでしょう。

しかし、私には結局無理だったとしても、その道行きを「こういう道があるんだよ」と示しておく、その必要はあるのではないか。

未熟者が恥を忍んで、こんな事を述べた理由がここに有ります。

 

 

ここに述べた内容について、詳しい事を生徒達に教えるかはちょっと解りません。

必要としていない者に、こんな事を話してもタダの説教オヤジに過ぎないからです。

 

 

戦う為の技術を、私に変わって後輩に指導出来る門下生が一日も早く出来ることを切に望みます。

 

 

 

「身体を動かすことは楽しい。それは私達の生命の躍動であるが故に。

武術とは人を傷付ける為の物ではなく、生を謳歌するものなのだから。」

これが解るまで、武術を始めたあの日から29年かかった。

 

 

イマイチまとまりに欠けますが(笑)、たまにはこの様な話もどうでしたか?

2009,3,21

 

第百二十八講

≪強い、とは?≫

 

「強くなりたい」と武術を始める人は多いです。

私もそうでした。

 

では、「強い」とは一体どういう事なのでしょう?

格闘技の試合で優勝する人でしょうか。

そういう人にも意表を突いた技で勝っちゃう人でしょうか。

いいえ、違います。

そういう強さというのは、単なるコンプレックスの裏返しだったりするのです。

腕力の強さ、そんな強さなんてものは愚にもつかないものです。

 

 

強いというのは、人の気持ちが解る事です。

人の痛みが解る事です。

 

自分の衝動ってありますよね。

こうなりたい。こうしたい。

こう言ってやりたい。

人間なら誰しもそういう衝動というか、欲望を持ちます。

 

でも、その欲を実行に移す事で誰かが傷付いてしまったり、

誰かに悲しい思いをさせてしまったりするのって、良く有る事です。

強い人、というのは、そういう時に相手の事を考えて、

自分の感情や欲望は抑えることの出来る人です。

 

欲望を強引に押し通す事で、誰かを傷付けてしまう事ってありませんか。

私なぞ誠に弱い人間なので、自分の事ばかり考えてしまいます。

結果、人を傷付けるだけでなく、自分の首も絞めるのです。

 

 

多少の腕力を身につける事で、他人を踏みにじるようになってしまう人もいます。

私の弟子達には、本当の意味で強い武術家になって欲しいと思います。

2009,4,13

 

第百二十九講

≪上手くなる、約束≫

 

 

上手くなるには、決まりを守って練習すれば良いのです。

では、“決まり”とは何か。

それは、より良く生きるとかいう道徳的な“決まり”なんかじゃーありません。

第一、そんな決まりなんてあたしだって守ってない。わはは。

あら、余談だわね。閑話休題。

 

 

“決まり”とは、内家拳であれば、放松、意、姿勢、呼吸。 取りあえずこれだけです。

決まり通りにやれば、絶対上手くなります。

上手くなれないのは、どこか言われた通りにやっていないか、それとも、練習量が不足しているかだけです。

 

決まり通りに練習さえすれば大丈夫。

あたしなんか居なくなってもオッケーです。

 

 

 

先生なんていつまでも居ませんよ。

“先生が教えてくれるから良いや、また聞けば良いや”

なんて思ってたら、機会を逃しますからね。

2009,4,16

 

第百三十講

≪仕方なく、説明(笑)≫

 

前講で述べた事は、当り前に教わる事なので、今更説明不要かと思ったのですが、

説明を聞く機会を逃した人もいるかと思い、一応解説します。

でもホント、あくまで簡単な説明に留めます。

 

 

゛放松"

無駄な力を抜くこと。

これが出来ないと一生武術が解らない恐れがある。  

 

 

゛意念"

動作に意識を伴なわせること。

「用意不用力」なる言葉もある。つまり、

(動作をする場合に)「意を用いて力を用いない」という事である。

・・・であるからには、気が散ってるような状態ではダメ。

当然、稽古しながら他のことを考えたりしていてはいけないのだ。

晩酌のツマミの事とか、

惚れた女の事とかで頭一杯にして套路打つなんてとんでもねぇ、という話だ。

・・・え?そりゃ俺だって? うるせーよ、俺はいいんだよ、ほっとけ、べらんめぇ、ばろっちょえー。

↑こおゆう態度では上達しない。

 

 

゛姿勢"

動作の要求のこと。

立身中正とか、沈肩墜肘とかとか色々あるでしょ。

あれだよ、あれ。

 

 

゛呼吸"

に関しては詳しく述べない。

要は動作に対して呼吸を効果的に使う事、に尽きる。

 

 

以上っす。

 

あ、因みに前講共に、これらは攻防技術とは又別ですよ。

2009,4,18

 

 

 

bottom of page